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不思議な旅
2021/01/26(Tue)

昨年(2020)の5月ごろから、奈良へ行かなければ、と言う思いが次第に強くなってきた。そんな時に「先生、民泊を始めたから奈良に来ない」と、かって患者さんだった方から連絡がきた。その方は奈良の旧家を継ぐことになり、その旧家を改造して民泊の施設を作ったのだという。「行く行く」と二つ返事で答えてしまった。

なぜそんなに奈良が気になるのかと言うと、およそ45年前から、8回ほど奈良の史跡を歩いていたが、その時、3カ所で不思議な体験をしたからである。

初めは昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山で、2回目は昭和51年(1976)3月の吉野山、如意輪寺にある後醍醐天皇の御陵で、3回目は昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社の奥にある藤原鎌足公の御陵で。

1回目の鳥見山の体験は後で述べるとして、2回目の不思議体験は二泊三日の行程で、その初日、私は先にのブログで書いた天武天皇の御歌の「耳我の峰」を探して、明日香川を遡り、栢森(かやのもり)、 芋峠、吉野神宮に至る、およそ15、6キロの道を歩いていた。

先のブログで書いた耳我の峰は、天武天皇が皇位を一度は断念し、出家し、吉野に下る際に通った山路にある峰とされていて、そのルートは、三本あると推定されている。その一本を、国土地理院の2万5千分1の地図を頼りに歩いていた。

印象深かったのは、当時の明日香川は源流にさかのぼるにつれ、川幅は狭まり、これが万葉に歌われた川かと思うほど、どこにでもありそうな小川にだったが、さやけさは一層増すようだった。午前10時ごろの日差しの中で、栢森(かやのもり)の道は、人っ子一人と通らず、途中の板塀に、明治か大正の時代に作られたかと思えるブリキ製の錆びた仁丹の看板が、板塀に張り付くようにかかっていて、まるで街全体が時を止めて眠っているように思えた。

しかし、そこを過ぎ、吉野への山道に入ると、その半分ぐらい行程のところで、ダンプカーが行き交い、新しい道路を造っていた。大いに興が削がれた。おかげで、耳我の峰と思える形の峰を見ることはできなかった。

造成仕掛りの道を通って吉野神宮にお参りして、この日は吉野山の旅館に一泊し、二日目は吉野水分(みくまり)神社、金峰山寺を観光し、如意輪寺を尋ねた。

そこで、ふと、後醍醐天皇の御陵への案内板を見つけたので、そちらに歩を進め、御陵の前に立った時である、その日は、3月の、温かさを増してくる春の日差しが心地よく、空はよく晴れていたのだが、それまで、静まり返っていた林が轟々と音を立てて騒いだのである。今まで晴れいた空は雪空に変わり粉雪が降ってきた。

天候のあまりに変わりようと、山鳴りかと思うような木々のざわめきに驚くとともに、畏敬の念に打たれて、おもわず合掌してしまった。数分が過ぎると、木々のざわめきは消えて、青空が戻ってきた。これが奈良の旅で出会った不思議体験の2度目である。

吉野駅より近鉄に乗り帰路に着いたが、電車が駅を離れる時、そばにいた人が、後醍醐天皇の御陵のあるあたりを指して、あすこだけ雪雲がある、とい言っていた。つられて、私もその方を見ると、御陵を包むように灰色の雪雲が覆っていた。誰かが「なごり雪やねー」と言った言葉が妙に耳に残った。

その言葉で、私に名残を惜しんでくれたのか、とも考えたが、まさか、そんなことはなかろう。でも、不思議な感じは、より強くなった。何のご縁かはわからなかったが「もう一度、お酒持ってお参りに来ます」と御陵に向かって思った。

同じような体験はの3度目は、昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社にお参りした時に起こった。神社の横手にある案内板で、御破裂山(ごはれつやま)山頂に藤原鎌足公の御陵があるとわかったので、そちらに向かった。

2月22日、前日は大雪が降ったので、談山神社は社殿も、有名な十三重の塔もすべては雪景色の中にあった。しかし、この日は、よく晴れて、白い雪と青い空のコントラスト目に焼きつくようだった。歩をすすめる急勾配の山道も雪の中である。よほどの物好きなければ、こんなルートは選ばないだろう。その白い雪の中に点々と私の足跡だけが残っていた。

2、30分歩いただろうか。10メートルくらい先に 御陵の祭壇が見えてきた。その時、突然、猛吹雪に見舞われた。2、3メートル先しか見えない。御陵の祭壇は完全に見えなくなった。「一転にわかに、かき曇り」という言葉があるが、まさにそれである。周りの樹木は靡き、唸っているように聞こえた。

立ち止まり、合掌すること数分、起きた時と同じように突然吹雪は止んだ。青空は戻り、穏やかな日差しの中で、藤原鎌足公の御陵に参拝できた。次に来る時は、ここにもお酒を持ってこなければと考えていた。

以上は、私に身に、43、4年前に起こったことだが、一回目の不思議体験は、45年前の、当時27歳の私と、現在の2020年10月26日の72歳の私に起こったことなので、併記して書いてみた。

昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山を訪れた。ここを知ったのは上智大学の渡部昇一先生の紀行文からで、鳥見山の山頂に神武天皇が大和を平定したのち、初めて霊畤(まつりにわ)を行ったところである、と書かれていた。

霊畤については、等弥神社のパンフレットには次の文がある。『霊畤は、国で採れた新穀及び産物を供えられ、天皇御自ら皇祖天津神々を祭られ、大和平定と建国の大孝(たいこう)を申べ給うた大嘗会(だいじょうえ=大嘗祭のこと)の初の舞台です。いわば我が国建国の聖地と言えるでしょう。』

大嘗祭とは、新天皇が即位して最初に行われる新嘗祭ということだから、宮中の最も尊く重要な儀式の原点がこの鳥見山なのだ。しかし、前後の教育の影響か、タクシーの運転手も場所を知らなかったと渡部昇一先生は書かれていて、いわば、忘れ去れようとしている所のようなので、それでは、是非とも行かなければ、と思って訪れることにしたのだった。

私は地図を持って、等弥神社の前に立っていた。その時、神社を守る二頭の狛犬の像が妙に気になったのだけれど、気のせいかと思い、山の登り口を探した。地図には一本の道しか載っていなかった。しかし、等弥神社の拝殿の左右にそれぞれ道があって、どちらが本道か迷った。できれば道に迷いたくなかった。持病である膝が痛み出していたから。

拝殿の左の道は平坦で、右の道はいくらか登りの勾配があったので、山に登るのだから、多分こっちだろうと思って、そちらを選んだ。しかし、しばらく登りが続いていたと思ったら、下るようになってしまった。もう少し歩けば登りになるかと思い、歩き続けたが、川に出てしまった。川の両側は自然にできた勾配で、コンクリートなどで護岸工事されいず、人の手の入らない自然そのままの川のようだった。

川が流れていれば低地なので、ようやく道を間違えたことに気づき、引き返すことにした。膝の痛みは少しづつ増してきた。やっとの思いで、元の場所に戻ることができた。30分くらい時間を無駄にしたろうか?。

さて、こっちが本道と思われる、左の道を歩こうとすると、二匹の犬に行き手を遮られた。猛然と啼いている。そしてデカい。72年の生涯を通じても、あんな大きな犬に出会ったことはない。子牛をわずかに小さくした感じである。

こんなのに襲われたら命は一溜まりもなく失われるだろう。困った。どうするか?、登山を断念して帰るか、とも思ったが、ここまで来て引き返すのも癪である。写真を撮るために三脚を持っていたので、襲われたら、これで応戦しようと考えたが、尋常ではない大きさと、二頭いることを考えたら、十中八九、死ぬな、と思った。そして、エエい、死んでも構わん、神武天皇の事績を見るために命を落としても、それは本望と思い、一歩、歩を進めた。すると二匹は一歩後ずさりした。もう一歩進んだ。二匹は後ろを向いて、ワンワンと吠えながら逃げていった。

良かった、とホッとして、歩きだしたが、歩く前方から犬の鳴き声が常にしている。いつ、反転して襲ってくるか?、ビクビクしながら歩を進めていった。すると、道は再び左右に分かれた。犬の鳴き声は右の道から聞こえてくる。膝の痛みを考えると、もう道を間違えたくない。しかし、この時になると、心の中に、怖いという思いと、親しいという、相反する思いがしてきて、もしかしたら犬どもは俺を案内しているのではないか?という気がしてきた。それで、思い切って声のする、右の道を選んだ。

その道を5分ぐらい歩いたか?、急に開けた場所に出た。ちょうど展望台になっていて、そこから、畝傍、耳成、香具山の大和三山が、最高のロケーションで見ることができた。このことは渡部昇一先生も述べていたが、35ミリの広角レンズを使えば、ワン・ファインダーで収めることができる。

前回の奈良の旅で、山辺の道の金谷、海拓榴(つばいち)付近で、大和三山を写真に撮ってみたが、とても一回で収めることができず、三枚のパノラマ写真にして収めなければならなかった。ところが鳥見山展望台?では、きれいに一枚に収まるのである。ここから眺める大和盆地は絶景と言うほかない。

そして、ここで、もう一つ気付いたのが巨大な石碑である。私の背の丈の2倍以上はあろうかと思われる高さで、表面には1センチ5ミリ角ぐらいの小さな漢字が上から下まで、びっしりと刻まれていた。読んではみたが、見たこともない字でほとんど判読できなかった。一応写真に収め、後で読もうと思ったが、写真で見ても分からなかった。(この時の写真は、家内が生前子供の成長記録をまとめようと、集めていた写真の束の中にあるはずだが、その数があり過ぎて、日々の仕事と、その他の整理で、簡単には見つかりそうもない。とりあえず、この文を完成させてから、ゆっくり探し、あれば、ここに載せようと思っている。)

頂上はまだ先なので、そこを後にして、歩きはじめて気づいた。さっきまでしていた犬の鳴き声がしない。どこかへ行ってしまったようだった。ホッとしたのと、寂しいのと妙な気持ちだ。さらに歩いていると、左からの道と合流した。もし犬の声を避けて、左に行ったら、さきの場所とは出会えなかったな、と思った。二匹の犬が導いてくれたようだった。

そして、とうとう頂上と思われる、開けた場所に着いた。霊畤の文字の刻まれた、およそ膝くらいの三角形の石碑を確認するとほぼ同時に、林が騒ぎ出した。先にも書いたが、一陣の風とともに木々が揺れて、騒ぐのである。すでに書いてきた体験は、この後の不思議体験である。この時が、初めての体験なので、恐れ多くなり、来てはいけないところに来てしまったと思った。跪いて合掌していた。

以上が45年前に体験したことだが、その三箇所で、もう一度来ますと、心に誓ったことなので、いつか奈良を訪れ、供物と酒を捧げようと決めていたが、難病を病む家内の介護があって、訪れることは叶わなかった。その家内も2年前に亡くなり、子供も独立し、独居老人のお仲間になれたが、コロナ騒動で、訪れるチャンスはなかなか巡ってこなかった。

そんな折の、誘いなので、昨年の10月25、6、7日の二泊三日の予定を組んだ。行くべき場所は、すでに述べた三箇所である。民泊の宿は大和八木にある。不思議体験三箇所のど真ん中にあると言って良い場所だった。まるで仕組まれていたようだった。

供物は、新潟のコシヒカリの新米、スルメ、塩、酒は二合瓶で八海山を用意した。1日目は吉野の後醍醐天皇の御陵、2日目の午前中に多武峰の藤原鎌足公の御陵を訪れ、用意したものを献上し祈りを捧げた。また、不思議な現象は起こるかなと、わずかな期待があったが、二つの場所では何事もなかった。

26日の午後、鳥見山の等弥神社を訪れた。昔は見捨てられたような神社だったが、今は参拝客も多いのか、登山の為の無料貸し出しの六角棒や、土産物なども売っていて、地域の人々の参加する催しもあり、賑わっているようなので安心した。

神社の社殿に立って、右を見ると、かって迷い込んだ道があるはずなのだが無かった。川はあるが、両側をしっかりコンクリートで固められて、まっすぐに流れていた。45年の歳月が感じられた。さて、右の道を歩こうとすると、ここにも変化はあった。平坦な道はなくなって、赤い鳥居があり、参道は階段を登るようになっていた。当時、このような作りになっていれば、迷うことなく、こっちを選んだと思う。

その階段を登り、山道を歩いているのだが、二股に分かれた道がない。展望台はどこに行ったのだろう?、探しながら歩いていると、50センチほどの高さの登る小道を見つけたので、そこを登ると、かっては展望台になっていたであろう場所に出た。しかし、杉の木が視界を覆い、大和三山を見ることはできなくなっていた。石碑はあったが、『見わたせば 大和国原ひとめにて 鳥見のゆ庭の 跡ぞしるけき』と書かれていた。

歌の文面から、ここが、かって大和三山をワンショットで撮った場所だと知れるが、和歌で、しかも現代の人が歌った歌である。ひらがながあるから、背丈の2倍ある漢字のビッシリと彫られた石碑ではない。では、あの石碑はどこに? この旅の大きな目的は、その石碑に書かれた漢文を読んで見ることだった。読めなくても、せめて何を表そうとしたのかを知りたかったのだが、その石碑がないのである。

ネットで探していた時に、ようとして見つからないので、現地を訪れば分かると思っていたが、これはどうしたことだ?

まだ先に歩いて行けば、あるのかもしれないと思い、歩き続けていたら、山頂に着いてしまった。霊時の石碑がそこにあった。間違いなさそうだが、記憶と全く違う。あの時、霊時と書かれた石碑は、こんな長い形では無かった。もっと底辺のひろい、堂々とした三角形だった気がする。霊時の文字も、こちらは草書のようだが、私の見たのは隷書のような文字で、くづしは無かったように思う。

その石碑が置かれている敷地の広さも違う。かった見た時は、もっと広く、100人ぐらい優に並べる広さがあった。ここでは10人ぐらいが関の山だろう。供物を捧げる儀式には神武天皇一人で行われたのだろうか?様々な文官、武官を従えての祭りを行うには、狭いような気がする。もっとも、新嘗祭は天皇陛下お一人でなされるそうだから、狭くても良いのかもしれないが、いずれにせよ、かって私が見たものとは、全然違っているのだ。

これは、いったいどうしたことだ?。狐につままれた? わけがわからなくなったが、とりあえず、持ってきた供物とお酒を供え、祈りを捧げた。それを終えて、山道を下り帰路に着いたが、下り終わるあたりで、下からおばあさんが登ってきた。挨拶したら、声をかけられたので、少し話をした。

なんでも、83歳になって、足腰が衰えてきたので、少しずつ上り下りして鍛えているそうである。「小学生の時はこの山の隅々までを駆けずり回って遊んでいたのに、今は、やっとの思いでここまで来るのですよ」。というので質問してみた。83歳なら11歳私より年上だから、私が27歳の時にはおばあさんは38歳。

当時を十分知っていると思って、「私の背丈の2倍ある石碑はありませんか?」と聞いてみた。キョトンとして答えられた答えが「そんなのありません」ということだった。「では二匹の大きな犬は?」いくらなんでもあんな大きな犬が野犬のように山を駆けずり回っていれば記憶しているはづである。しかし「そんな犬はいません」という答え。

混乱してきた。社務所をおとづれ宮司さんに同じ質問をしてみた。私は50年前からここにいるが、見たことも聞いたこともないとのことだった。では、私は45年前、白昼夢を見ていたことになる。

これが昨年私が体験した不思議な旅の物語である。私の不思議な旅は、これで終わったが、これからはトランプ大統領に連れて行ってもらえそうである。期待にワクワクしている。





ホワイトハウス捕虜収容所出現?
2021/01/20(Wed)

ふと思った。
今、ホワイトハウス周辺は鉄条網をつけたフェンスで囲まれているそうである。トランプ大統領を支持する為に集まった人が暴動を起こした場合、大統領就任式に集まった人々を守る為らしい。
また、そうした暴徒からバイデン大統領候補たちを守るため2万5000人以上の兵士が集まっていると言う事である。
幾ら何でも、その目的の為の手段としては大袈裟過ぎないか?
ふと、映画の大脱走を思い出した。スティーブマックイーンがオートバイで飛び越えようとした捕虜収容所のフェンスだ。
そこで気がついた
今回の不正選挙に絡んだ人々はあまりにも多く、おそらく万を超えるだろう。グアンタナモの刑務所が、そんな彼等のすごす場所となるようだが、彼らが一斉に捕らえられた場合、輸送を考えると一度には無理だろう。そこで、仮説の収容所が必要になる。米軍はホワイトハウスに、その収容所をつくったのではなかろうか。ことによると、軍事裁判はここで行われるかもしれない?。そしてそれは、テレビ中継される。なんという皮肉。でも、史上最大の不正選挙を行おうとした者たちにはふさわしいのかもしれない。不思議な旅の第一歩は前代未聞の収容所から始まるのかも知れない。





万葉集の歌2題とトランプ大統領
2021/01/14(Thu)

天武天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 
時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如(ごと) 
隈(くま)もおちず 念(おも)ひつつぞ来る その山道を

この歌は天武天皇が壬申の乱に勝利した後、当時を振り返って詠われた歌である。大意は次の如く。

み吉野の耳我の嶺に、やむ時もなく雪が降りついでいる。間断なく雨が降りつづいている。その雪がやむ時もなく降りつづいているように、その雨が絶え間もなく降りつづいているように、山道のすべての曲がり角ごとで、思い悩みながら歩いてきた、その山道を。

この念い悩んだこととは、どんなことだったろう。私は、兄の天智天皇が蘇我入鹿を殺害し、大化の改新をしてまで実現したかった理想が、崩されて行く現状を見ながら、それに目をつぶり生きて行くか、またはその理想を実現するために自分が先頭に立つべきかで、悩んでいたのではないかと思う。

理想実現のために立ち上がれば、兄、天智天皇の御子であり、自分にとっては甥っ子である弘文天皇(第39代? 672-673)に弓を引くことになる。しかし、立ち上がらなければ、皇統はいずれ息を吹き返す地方の豪族たちの私利私欲によって絶えてしまうかもしれない。「シラス」の理想は潰え「ウシハク」に取って代わられる。「どうすべきか?」と悩まれた時の歌ではないかと思っている。

大海人皇子(天武天皇)は悩んだ末に、壬申の乱を起こし、終には勝利し、次々と政策を実行して行く。

古事記と日本書紀の作製指示、神道の形態の確立、伊勢神宮の式年造営を定め、仏教を国家によって保護、律令国家を建設(ハード面 藤原京、ソフト面 飛鳥浄御原令→後に大宝律令として完成)など、まさに日本という国家の原形を作り上げたと言って良い。特に、古事記の編纂は特筆に値する。

古事(ふること)の ふみおらよめば いにしえの てぶりこととひ 聞見るごとし

本居宣長が古事記伝を、35年かけて、心血を注いで研究し完成させた時に、詠んだ歌である。その古事記を読んで行けば、上古の人々の、生活や、考え方、物の見方、語り合う事ごとが、今のわれわれが眼前で見て聞いているようにわかる、と言っているのである。

今日、縄文時代の遺跡が数々発掘され、従来の概念を覆して、新しい視点を与えてくれてはいるが、しかし、それらは、すべて遺物から推測される事柄だけである。縄文人の息吹、その生き生きした姿を知ることはできない。その姿を知るには古事記、日本書紀、万葉集に頼るしかないのである。付け加えれば、成立の分かっていない万葉集も天武天皇の発案であっても、おかしくないと思っている。

口伝で伝えられている古代の人々の姿を、後世にありありと正しく残すには、それらが、時代を経て風化して行く中で、文字として残すしかなかった。これが天武天皇の修史の着想となったのである。

小林秀雄は著書「本居宣長「の中で『・・この意識が天武天皇の修史の着想の中核をなすものであった。当時の知識人の先端を行くと言つてもいい、この先鋭な国語意識が、世上に行はれ、俗耳にも親しい、古くからの言伝へと出会ひ、これと共鳴するといふ事がなかつたなたならば、「古事記」の撰録は行なはれはしなかつた。そして、このやうな事件は、其の後、もう二度と起こりはしなかつたのである。』と言っている。

話を歌に戻す。天武天皇の悩みの根源は、すでに述べた「シラス」の原理が「ウシハク」に覆われようとしているのを座視すべきか否か、なのである。そう見てくると、私には、この歌が、今の我々が目撃している「トランプ大統領」の悩み、と直結してくるのだ。

始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と古事記に書かれた言葉がある。「天下を初めて治めた天皇」という意味であるが、この称号は、初代の神武天皇と、第10代の崇神天皇に与えられている。余談だが、これを持って神武天皇と崇神天皇が同一人物であるとの説が左翼学者の間で横行しているが世迷言である。「ハツクニシラス」とは、建国の理念を実行した天皇、と解されるべきである。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)=神武天皇に「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は、汝(いまし)の知(し)らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降(あも)りすべし」と仰せられた。つまり「シラス」を実行して日本を治めよ、という意味だ。「シラス」を実行する事が建国の理念なのだ。

しかし、その「シラス」の統治原理は、第2代、第3代と時を経るごとに曖昧になり、第10代の崇神天皇の頃になると、地方豪族が私利私欲のために反乱を起こし、日本を「ウシハク」して治めようとする動きが出てきた。そこで、崇神天皇は大改革を行い、初代天皇の「シラス」の原理に戻したと記紀は伝えているのである。

人は欲に溺れやすい。最初に崇高な原理で建国された国家も、時を経るごとに、身に垢がつくように、次第に汚れてくる。したがって時々、禊をして、垢を洗い落としリフレッシュして元に戻してやらねばならない。

そして、それは長い歴史の中で何度でも起こる。第10代崇神天皇より数えて第32代の崇峻天皇は蘇我馬子により暗殺されてしまうのである。「シラス」が「ウシハク」に取って代わられる危機が再び起こってきた。この危機の時、聖徳太子が現れ一七条憲法を制定し、三経義疏(法華経、勝鬘経、維摩経の注釈書(義疏・注疏)を表し仏教を広め、人のあるべき道を示すが、蘇我氏の横暴は止まず、「シラス」危うい立場に陥る事になる。日本の歴史上でも、建国の理想の最大の危機と言って良いだろう。

これを止めたのが、大化の改新を起こした天智天皇なのだが、天智天皇亡き後「シラス」原理は曖昧になって、再び「ウシハク」に覆われようとしていた。それを覆し、元の「シラス」原理を打ち立て成功させたのが、弟の天武天皇だ。

そういう見地で見ると壬申の乱も、再び建国の理想に戻す為には必要な戦だった。そして、それを行なった天武天皇にも「ハツクニシラススメラミコト」の称号を与えても良いと思う。もっとも、古事記は推古天皇までで終わっているし、記紀編纂を命じた天皇だから、当然、書かれることは無い。過去の事績を伝えるのに用いる「ハツクニシラススメラミコト」なのだから。とは言え、記紀には書かれる事はなかったにしろ、後の世に生きる我々は、それを肝に銘記すべきだろう。さらに言えば、トランプ大統領もアメリカの失われようとしている建国の理想を戻し、再び実現させた大統領になる筈だから「ハツクニシラス」と呼んでも良いではないか。

舒明天皇の御歌

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝(ね)にけらしも

夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろう、という意味である。

斎藤茂吉は「いねにけらしも」の一句は「まさに古今無上の結句」「万葉集中最高峰の一つ」と評価している。

私が若い頃、影響を受けた山口悌治先生の「万葉の世界と精神」には『この御製(ぎょせい)には、惻々(そくそく)として身に迫ってくるものがある。それはこの御製を支えている名状し難い静けさである。文学的な鑑賞眼などでは、とうていとらえることのできない、その静寂の深さである。………舒明天皇をとり囲んで、ひしひしと迫ってくるのは、物音一つしない無限の静寂である。森々と深まりゆく宵闇である。………この御製全体を、胎盤の如く包んでいるものは、舒明天皇のあの「沈黙」だと思うからである。』と評している。

確かに、歌に不慣れな私にも、尋常ならざる静けさは感じられる。しかし、この時、舒明天皇のおかれていたお立場はどうであったか?。これを解さなければ山口先生が「舒明天皇の「沈黙」と書かれた意味がわからない。もう少し山口先生の解説を読んでみる。

『推古天皇の崩御後における皇位継承の紛争。蘇我蝦夷(そがのえみし)を一方の主軸とする群卿の対立抗争の間に処して「沈黙」を守り通して、密かに聖徳太子の悲願の達成を祈念せられた、あの「沈黙」の意義の深さを想わずにはいられないからである。そしてその「沈黙」の祈りの中から、大化の改新の指導者であり完成者である、天智天皇と天武天皇のご兄弟の皇子を見事に育て上げられたのである。舒明天皇に関する限り、このことはは決してわすれられてはならない。』。先に書いたが、第32代の崇峻天皇は暗殺されている。舒明天皇の周りでは陰惨な権力闘争が起こっていたのである。

皇極天皇ーーーーーーーーーーーーー舒明天皇
(第35代)     |     (第34代)
斉明天皇      |
(第37代)     |
     ―――――|――――-
      |          |
   天武天皇       天智天皇
   (第40代)     (第38代) 
   673~686       626~672

「ウシハク」を行おうとする者は、目的のためには、暴虐の限りを尽くしも恥じない。「シラス」を目指す者は、常にこの妨害に遭いながら、政(まつりごと)を行うのが世の常のようである。そして「ウシハク」は時間とともに増殖する。だから、時々リセットしてやらなければならない。

それは正に現代だ。アメリカで起きている、2020年11月3日〜2021年1月20日のアメリカ大統領選挙は、その最大級の出来事である。トランプ大統領はほしいままに跋扈するDSと中共の間にあって、気が熟するまで、この「沈黙」を貫かれたのであろう。だが、今、機は熟し時は来た。

アメリカ版、大化の改新だ。それには壬申の乱の様に軍事力が必要になる。グレイト リセットはバイデン側の標語だが、皮肉なことに、その軍事力によってグレイト リセットされるのは彼らになるのだ。もう少し、もう少し。





米国大統領選挙と禊払いと大禍津日(おほまがつひ)の神
2021/01/04(Mon)

神話とは植物の種のようなものだと思っている。
満開の花を咲かせた桜の巨木も、時間を遡れば元は一粒の種が地に落ちて始まる。種から芽が出て、苗になり、枝葉が歳を重ねるごとに大きくなり、今日の巨木になったのである。それは種の時から約束されたことであり、時間が立つごとに確かなものになっただけだ。したがって今日の巨木も、すでに種の中に約束されていた事といえよう。時間という縁により、種の中に内在していたものが実現しただけなのだ。

こう考えてみると、我々が、今、観て、感じている我が国の歴史も、種の時代があったと考えることも出来そうだ。では歴史の種とは何か。私はそれは神話だと思う。だから、すでに神話の中に、今日起こっていることも約束されている筈なのだ。

種を特殊な電子顕微鏡(走査型光プローブ原子間力顕微鏡)でみれば、遺伝子の配列もみることが出来るようだ。同じように、特殊感覚の持ち主がいて、彼がその感覚を働かせて神話を覗けば、彼には未来に起こる出来事がわかり、古事記の神代の巻は、そうした感覚の持ち主が、それを、今日の我々に伝えるために残してくれたのものなのかも知れない。こう考えてみると、古事記の神代の巻きは予言の書であると言えないか?

このような考えに至った切っ掛けは、数年前から、特に韓国や中国、また我が国でも、可笑しなことをして自ら正体を晒してしまうような行動が随所で目立つようなって来たからである。

例えば、韓国のレーダー照射問題。ただ一言「間違えた、スマン」といえば終わっていたことを、日本の責任に転換した。韓国が長年、歴史の水面下で秘密裏に行ってきたことを自らの手で暴露してしまった。

また、中国が、香港に逃亡犯条例をゴリ押し、認めさせようとした事などもそうだ。
香港は1997年に英国より中国に返還される際、五十年間「一国二制度」として独自の自治を認められていた。それなのに25年そこそこでその約束を反故にしようとした。当然、香港住民の激しい怒りを呼ぶことになり、大いに治安が乱れた。この時は中国のゴリ押しが功を奏し法案は成立してしまった。

しかし、それが翌年の台湾の総統選挙に影響した。当初は中国寄りの韓国瑜氏が有利で、対抗する蔡英文氏を押しのけて台湾総統になるはずの勢いだった。しかし、香港が中国に飲み込まれたことにより、不利であった蔡英文が当選してしまった。習近平が、もう1、2年待てば、台湾は彼のもとに転がり込んだはずなのに。何を早まったのか、水面下に置いてあった野望を表に早く出し過ぎたために、積年の計画が頓挫してしまった。

日本のNHKや民放、あるいは新聞各社に代表されるマスコミの左翼偏向報道もそうだ。そんなにあからさまな偏向をしたら、気付かれてしまうようなことを平気でやっている。だから、ユーチューブで叩かれ、おかしいと感ずる人を増やしてしまっている。と、このようなことが目白押しに現れて、自ら正体を曝け出すような出来事が頻繁に起こっている。

では、神話では、このことをどのように述べているのか? イザナギの命が黄泉の国に行き、その国の穢れたことを悟り、その穢れを禊払いを行って洗い落とすのだが、その時、禍津日(おほまがつひ)の神が生まれてくる。これが現在、我々の周りに起こっている事だと、私は思っている。

この件(くだり)を古事記は次のように述べている。

ここを以(も)ちて伊耶那岐(いざなぎ)の大神(おおかみ)の詔(の)りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾(あ)は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊(みそ)ぎ祓(はら)へたまひき。
………
ここに詔(の)りたまひしく、「上(かみつ)瀬(せ)は瀬速(せはやし)。下(しもつ)瀬(せ)は瀬弱(せよわ)し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に降(お)り潜(かづき)て滌(すすぎ)たまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(ほまがつひ)の神。この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の、汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

私見では、以下の表現は地名というよりは、物理学上の「場」の説明だと思っている。

日向(ひむか) → 日に向かう、明るい方を向く
橘(たちばな) → 言葉が立つ、という事。「ば」はコトノハの「は」すなわち言葉が生まれる所。言は事である。だから、物質の発現する場を表している。聖書でも「はじめに言葉あり」と言っている。「は」は始まりの「は」でもある。
小門(おどの) → 小さな、小さな門、すなわち、最小単位の入口
阿波岐原(あはぎはら) → 淡く、微かな、消え入りそうな、場

つまり、時間も空間の発現する以前の場のことで、宇宙が始まったと言われる特異点のことだ。そして、そこで神様が禊をしたら、人類文明が長い歴史を経るうちに身に付けてしまったさまざま悪癖や悪習が洗い落とされた、ということではないのかと思う。そうすると、その垢から、「まがつい」という禍々しい悪さをする神様が生まれてくるようである。

二柱の神様が生まれてくるが、最初に出てきたのが八十禍津日(やそまがつひ) の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神様が生まれる。八十(やそ)とは、「多くの」という意味で、無数のまがまがしい禍が起こるという事のようだ。問題はこの後に出てくる「大禍津日(おほまがつひ)の神」である。八十禍津日(やそまがつひ) の神様は、すでに述べたように、世界中で身晴れするような事件が数々起こっているから、おそらくその事であろう。

大禍津日(おほまがつひ)と、「大」の字がつかわれているからには、大規模な災が起きるという事ではなかろうか?。それは、どんな事だろう。当初は、地震、津波、彗星の落下などの大災害を予想していたのだが、どうも、そうではなさそうだ。

昨年の11月3日に行われた米国大統領選挙が、その災いではないかと思うようになった。この選挙では、滅茶苦茶な不正が行われた。その実態を知りたければ、二つ前に示したYouTubeのアドレスに飛べばわかる。しかし、米国も日本のマスコミはその事実を隠蔽しているので、ほとんどの人はその実態を知らずにいる。さらには、あからさまな事実があるにも関わらず米国の司法も知らん振りであるから、ほとんどの人々はバイデン氏が勝ったと思っているのだ。だが、事実は違う。

元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は「世界を支配するディープステートとの最終戦争が始まった」の中で、世界はトランプ大統領の陣営とウオール街の金融資本を牛耳るディープステートと中国共産党との三つ巴の戦いが始まっている、と言っている。これこそ善と悪との最終戦争であり、アルマゲドンなのだと言うのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=EtgGzJd96tc

どうやら、これは単なる大統領選挙という次元を超えて、歴史の闇に巣食う闇の勢力との戦いのようだ。YouTubeに、トランプ大好き、石川新一郎さんのチャンネル がある。

https://www.youtube.com/watch?v=KTfys8es2f0&t=25s

ここに「ワシントンからのメッセージ」が届いている。これを聞いていると、今まで陰謀論と思っていたことが、どうやら事実のようだ。飛行機事故で行方不明になっていたケネディ・ジュニアは生きていて、トランプ陣営を影からサポートしているらしい。ともかく、この戦いの後、全ての事柄が良い方向に向かうらしい。とは言っても、これを読んでいる方は「馬鹿馬鹿しい」と信じられない事だろう。だが、嘘か誠か、真実は、この二日後にわかる。

言い忘れたが、神話では「禍津日の神」の生まれた後に、『禍(まが)を直さむとして成りませる神』様が生まれ、さらに最後には、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、月讀命(つくよみのみこと)、建速須佐男命(たけはやすさのをのみこと)の三神がお生まれになる。
………
この時、伊耶那岐命(イザナギノミコト)大(いた)く歡ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三柱の貴子(うづみこ)を得たり」と詔りたまひて、喜んだということである。





アメリカのTVドラマ
2020/12/14(Mon)

ブラインドスポット シーズン4 #6 裏切りの行方

このドラマは主人公ジェーンの体に彫られた沢山のタトゥーがキモなのですが、それらはこれから起こる数々の事件を予言しています。ただ、それは誰が、何の為に彫ったのか、本人も関係者も分からず、全てがナゾのまま色々な事件が一話完結の形で推移して行きます。

今回は、ジャスティン・トリンプル議員が殺され血文字でGPAと書き残した、ことから始まります。例のごとくジェーンのタトゥーに手掛かりがありました。タトゥーの絵には旗めく星条旗が描かれ、幾つかの星に赤い印が付いています。

色付きの星はジョージア、ペンシルベニア、アラスカ州だ。
旗竿が示す順に並べると頭文字が"GPA"
"アメリカ(A)の成長(G)と繁栄(P)を目指す会だろう。
ロビー団体?
最大級だ。連邦選挙と州の法案がらみで多額を献金
ニューヨーク州の下院議員候補たちにも大金を
候補の1人は誰かな?
マシュー・ワイツ(FBI長官)
FBI長官がKしの隠蔽を図っているようだ。

情報がある
………
この陰謀には中国が絡んでいる
………
本当かよ
………
星条旗のタトゥーを出せ
了解
旗めく旗の下のラインが揚子江のラインと同じだ
アメリカが中国に浸食されてる
うそ
………
中国とGPAの関係は架空会社で隠されてる
GPAは、中国のIT企業を国内に参入させようとしてる
5G技術をめぐる覇権争いだ
それが?
5Gは新たな宇宙戦争、むしろ軍拡競争だ
昔は核開発で勝負が決まった
現在の武器は、ネットと携帯
怖いのは核だけに限らない
………
いずれ中国に支配されるぞ
すでにGPAが下院を動かしてる
ワイツとの関係は?
………
お友達の議員の殺人と国際的で政治的な陰謀
………
誤解があるな、私も同じ件を調べてる(FBI長官)
だからフランクの家へ?
追跡は気にいらんがGPAの話だ
議員たちを操作し、ジャスティンをKした
法案(1020 846 6414 8221 9871……)への投票を見る限り中国が裏にいる

(場面変わる)

クローディアが”JB”と言ったのよね?
心当たりは?
あるぞ、ジェームスボンドにジャックバウアー…ジムブラウン?
冗談はいい
………
“JBが先に"しか聞いてない

***********************************************
この”JB”は、大統領候補のジョー・バイデン?

今、行われている米国大統領選挙の水面下ではこのようなことが起こっているのかも知れません。この脚本は、おそらく2、3年前に書かれていると思いますが、トランプ大統領は、今回の選挙がこうなることを予測し、そのの対策を4年前から行っていたようですので、その対策を練ったブレーンの一人が、この脚本を書いたかも?







偏向した頭を正すために
2020/12/13(Sun)

12月1日のブログで「米大統領選挙に思う」を書いたら、子供から、何でトランプ大統領が善なの?、と質問が来た。
確かに、日本とアメリカの主要メディアとGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)などのSNSはトランプ側の情報をほとんど出さないようにしている。中立なプラットフォームがないのだ。だから疑問に思うのも当然だ。

そこで、バイデン側の情報ははいくらでもあるので、偏った知見を正すために、トランプ大統領側の情報を発信しているユーチュバーを以下に上げてみる。

最初に疑惑を感じた人の一人
松井健太 松井塾・江戸川・篠崎 改 (学習塾の先生)
アメリカ大統領選挙登録有権者数が…
https://www.youtube.com/watch?v=wPqWchs5z_Y’
アメリカ大統領選挙
https://www.youtube.com/watch?v=uI-bXEZH-3c

誤解されているトランプ大統領
ごうちゃんねる(キリスト教の牧師さん)
前編 反撃開始 逆転なるか米国大統領選挙
https://www.youtube.com/watch?v=D0Me1UAZSso
中編 反撃開始 逆転なるか米国大統領選挙
https://www.youtube.com/watch?v=R9H3BHTR_Fw
後編 反撃開始 逆転なるか米国大統領選挙
https://www.youtube.com/watch?v=kQCXjhIMNxg

闇の組織 ディープステート

will増刊号
元ウクライナ大使 馬渕睦夫 世界を支配するディープステートとの最終戦争が始まった will増刊号#297
https://www.youtube.com/watch?v=EtgGzJd96tc
元ウクライナ大使 馬渕睦夫 愛国者によるグローバリストへの逆襲’ will増刊号#298
https://www.youtube.com/watch?v=F36FYNH9A3Y

最新の情報

張陽チャンネル 第70回
https://www.youtube.com/watch?v=54NjoK7Z4uo
張陽さんの心意気 第1回
https://www.youtube.com/watch?v=HAAPEek5fP8

瞑想の藤堂先生のメルマガから
世界史の茂木誠先生のわかりやすい米大統領選の裏側「2020の妄想」
https://ameblo.jp/vedacenter-jp/entry-12640943253.html
このなかの茂木誠さんの動画 15分ごろから
実名をだすとグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンからVANされるので皆んな発信にはくろうしている。さらには主流マスコミもバイデンを押して、真実の情報を隠蔽している。

女の子一人アメリカで現地突撃取材。日本の主要メディアの現地取材は無いの? 我那覇さんは自費で伝えてくれてます。
我那覇真子チャンネル
トランプ弁護団記者会見2 シドニーパウエル弁護士 日本語訳
https://www.youtube.com/watch?v=buivUTHNe00

元共産党の中枢にいた人
古是三春_篠原常一郎
毎晩、晩酌やりながらその日の話題を話している
https://www.youtube.com/watch?v=FG4dTkiUTuQ

言わずと知れた国際政治学者の藤井厳喜さん
藤井厳喜の『ワールド・フォーキャスト』
https://www.youtube.com/watch?v=B9ktq7lOfFQ

わかりやすい解説。すこぶる頭が良いと思う。
改憲君主等チャンネル
米国特殊部隊が突入
https://www.youtube.com/watch?v=5k8CHT93-xA

もっともアクセスの多いYouTuber
及川幸久 THE WISDOM CHANNEL
https://www.youtube.com/watch?v=NChKo_n63hM

中国通の日本人
妙佛 DEEP MAX
https://www.youtube.com/watch?v=cRc_sgLgIUU

とっさんtv
https://www.youtube.com/watch?v=7eEl0ua_ydg

マスコミの世界にいたらしい人、すごい早口だけど、話が面白い。
闇のクマさん世界のネットニュースch
https://www.youtube.com/watch?v=IxTjbvYXGao&t=1829s

トランプ大好き
石川新一郎チャンネル 
https://www.youtube.com/watch?v=RsQyI-rFET0

中国人の鳴霞さん
CIA長官逮捕? 在中華系メディアが報道! オバマ逮捕の噂も/
中国ワクチン・地方医師らも拒否
https://www.youtube.com/watch?v=_R3C14YAb-c

文化人放送局
https://www.youtube.com/watch?v=UvKQSXJfxSg

カナダ人ニュース
https://www.youtube.com/watch?v=zD-fV8WINic





米国大統領選挙に思う
2020/12/01(Tue)

善と悪が戦えば善は負ける。
何故なら、悪は卑劣な手段を使えて、その制限がない。無限といっても良いだろう。しかし、善は善ゆえに、卑劣な手段は使えない。従って使える手段は限られる。
だから、善と悪が戦えば、取るべき手段が無限にある悪が勝つ。

しかし、物事は二値の間の単純な関係では成り立たない。多くの要素を加える必要があるが、あまり多いと解りづらいので、一つの要素だけを加えてみる。すなわち善でも悪でもない第三の要素、人民である。

中里介山作、大菩薩峠、農奴の巻で、お銀さんと駒井甚三郎はそれぞれの方法で理想の共同体を作ろうとする。その中で、その共同体に参加する人々を、次のように分類している。

A  5% 理想に共鳴、真剣の同志
B 15% 上記に共鳴する準同志
C 60% 理想に無頓着、好奇心から参加、失望すると翻意する
D 15% 食い詰め者、陰口を叩き、怠けて空きあらばサボる
E  5% スパイ又は体制に反対する者。自利を優先する

この分類は底本を筆者意訳したものだが、この「農奴の巻」が書かれたのが1940〜41年ごろ、昭和でいえば15年か16年。日本が対米戦争を始める年に近い。

また、筆者の中里介山は国柱会の食客のような立場で、その定例会に出席していたらしい。その国柱会には満州国建国に携わった石原莞爾がいるから、その定例会で満州国建国の成否の話なども出たはずである。ということから、この割合は、満州国の建国に参加した人びとの動機であったと、と思っていて、当てずっぽうな数値ではないと思っている。

この分類に従えば、善はAB、悪はDE、そのどちらでもない人民がCということになろう。

ここから、悪は善との戦いに勝ったとしても、DEの悪のグループの中だけで自己完結していては、何のうまみもない。強いものが獲物を独り占めにして、下っ端はお零れがもらえるだけである。当然、不満ができて仲間割れが起きる。だから、彼らを満足させるためにも、どうしてもCの人民から富を収奪する必要が出てくる。

そして、ABの善も理想を実現するためにはCの人々の力が必要であり、Cを豊かにすることが善なるものの仕事である。これもABの中だけで完結していては、何の意味もないことになる。

従って、善も悪も、目的を実現するためには、Cの60%の人民の力が必要になる。善は人民からの協力が必要だし、悪は人民からの搾取が必要になる。ここに統治の方法に違いが出てくる。

それが、「シラス」と「ウシハク」である。古事記の中で語られる統治の形態の原理である。シラスは「知らす」が語源であり、ウシハクの「ウシ」主(ヌシ)が語源。「ハク」は刀を佩くのハクである。主人の力による統治ということになるだろう。

このことを考えながら、米国大統領選挙を見て行くと、トランプ大統領は「シラス」を目指し、バイデン大統領候補は「ウシハク」をしようとしているように私には見える。

果たして、米国民は、このどちらを選ぶのだろうか? 是非、「シラス」による統治を選んで欲しいと思っているが、果たしてどうなるのだろうか? 固唾をのんで行方を見守っている。

参考 「古事記 国譲り」に現れた「シラス」と「ウシハク」 

ここに天の鳥船(トリフネ)の神を武御雷(タケミカヅチ)に副えて遣(ツカ)わす。ここに以ちてこの二柱の神、出雲の国の伊耶佐(イサナ)の小濱に降り至りて、十掬(トツカ)の剣を抜きて浪の穂に逆さに刺し立てて、その剣の先に趺(アグ)み坐(イ)て、その大国主(オオクニヌシ)の神に問いたまひしく、「天照(アマテ)らす大御神(オオミカミ)高木の神の命(ミコト)もちて問(トイ)の使いせり。汝が『領(ウシハ)ける』葦原(アシハラ)の中(ナカ)つ国に、我が御子の『知らさむ』国と言いよさしたまへり。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。




天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
2015/08/12(Wed)

天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
 浅野晃  朗読 三島由紀夫 作曲・指揮 山本直純

30
ながいながい夜だった
彼らは耳を傾けてゐた
じつにいろいろの声が
語りかけて来たから
父なる声
母なる声
姉なる声
師なる声
友なる声
逝いて遠い友の声さへ
かれらは見たのだ
めいめいの持場にあって
美しい形を
まだ生まれない前に見た
数々の美しい形を
見たのだ
責務といふ名のもとに

66 アジアの岸の歌

曾て不毛の河辺に
寝ずの番してゐた彼らであった

天のどんな予兆も聞きのがすまゐと
全身を耳にしてゐた彼らであった

影に充ちた夜であった
草はやはらかく幼子のように
眠ってゐた
君たちもどこか草のように幼子めいて
見えていた

満点の星は身をふるわせて
縛されたされた女性を凝視してゐた
アジアという名の漠たる女性は
漠たる永い夜に縛されてゐた

あの刻 彼らの耳は
何をきいたのか

さかしらな人間があやつる舞台が音たてて
廻っただけなのか けれど
そんなことが 君らの願ひと
何のかかはりがある

君たちは装いを改めた
争って祖国の急に赴いた

花のような羞ぢらひのなかに
五月の夜よりもかぐはしく

やさしい思い出とも別れ
答えなき天に
おのれの影を投げながら

ひとり世を超え
おそれもなく
ためらいもなく

意味ありげなものの虚妄を
悪しく意味づけられたものの虚妄を
はげしく拒み また拒み

人みなが冷たしと見る
アジアの岸の夜明け前に
虚妄の意味を焼きつくし
おのれひとつの焔を燃えて

おそれもなく
ためらひもなく
花のような羞ぢらひのなかに
五月の夜よりもかぐはしく

聖なる戦いの真実を
おのれひとつに証(あかし)しして
闇の汐にの呑まれていった

君ら運命を超えて逝ったものよ
いまこそ 魂を鎮めるとき

67
われらが尽きぬ夏の日は
青い海が白い船を逝かせ
渚に光あふれ
瞳燃え
いかに永い別離が
われらを捉え
はるかな夜にさまよわせようとも
いつもここで
わたしらは出会ふ
生きるかぎり のちの世までも

68
ミンドロの岬から
シブヤンの水道から
スリガオの海峡から
デナガットの海から
ミンダナオの海から
サン・ベルナルデイノの迫門(せと)から
パラワンの島から
スルアンの島から
エンガノの沖から
サマールの沖から
レイテの沖から
サイパンの島から
テニヤンの島から
グアムの島から
アンガウルの海から
ハルマヘラの海から
パラオの島から
ヤップの島から
トラックの島から
ルオットの島から
クェゼリンの島から
タラワの島から
マキンの島から
ペリリューの沖から
モロタイの沖から
ビアクの島から
ニユーギニアの岸から
ブーゲンヴィルの島から
ソロモンの海域から
ツラギの島から
ガダルカナルの島から
ルンガの泊地から
ミッドウェイの海から
アッツの島から
帰って来い
帰って来い
帰って来い

69
赤道の秋
ひややかにうねりを返す浪の背に
祖国の声が 青い天から
呼んでゐる
捧げた君らの
尊い名を

70
静謐で清淨な空間を充たす
無尽の光
このひたすらな挺身者
時は いま 重い足どりで
歩いている
偽りの歴史を
じっくりと溶かすべく

71
すべては逝く
知つてゐたその人も逝く
録されたすべては亡びる
けれど記憶は殘る
けれど天は忘れない
すこやかにありし日のまま

72
死を超へて
なほも多くの日付がある

天と海 (完)


天と海

昭和40年(1965) 浅野晃 「天と海 英霊に捧げる七十二章」出版
昭和42年(1967) 三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化

『「天と海」の主部は、スンダ海峡を漂流しながら見たバタビヤ沖の海戦の強烈な印象が元になっている。輸送船団はみな錨をおろし、上陸ははじまっていた。その時私らの佐倉丸は、魚雷二発をうけて沈没したのであった。
 終戦とともに私どもは北海道にのがれ、勇払(ゆうふつ)の曠野に五年住んだが、その間、思いは多くの戦いの終始、わけても若くして国に殉じたおびただしい英霊の上に走った。自然、「天と海」は、北の曠野にあって、遠く南溟を思う格好になった。私はこの一作に微力を尽くした。戦後20年を便々と生き存えた罪も、これで幾分かは償われたような気さえした。………「謝辞」より』

『「天と海」は、叙情詩であると共に叙事詩であり、一人の詩人作品であると共に国民的作品であり、近代史であると共に万葉集にもただちにつながる古典詩であり、その感動の巨大さ、慟哭の深さは、ギリシャ悲劇、たとえば、アイスキュロスの「ペルシャ人」に匹敵する。この七十二章を読み返すごとに、私の胸には、大洋のやうな感動が迫り、国が敗れたことの痛恨と悲しみがひたひたと押しよせてくる。浅野晃氏は、日本の詩人として最大の「責務」を果たしたのである。………三島由紀夫』




戦争せざるを得なかった、負けてよかった2
2015/08/11(Tue)

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負けて良かった

「負けて良かった」というのは、この大戦の本質はここにあったと思うからである。

大東亜戦争はアジアの解放を目指した戦いである。勿論、表向きのスローガンには違いない。しかし、この言葉を信じ、鼓舞されて我が国民は戦ったのである。裏に経済侵略という目的もあっただろうが、「中国やアジアを侵略するから、この戦に集え」ということを信じて人が動いたのではない。何事にも物事には裏表があるものだ。

アメリカだって同じである。「民主主義を守る」と言うのが表なら、「白い太平洋(白人が支配する太平洋=林房雄)」が裏の目的である。しかし、スローガンが「白人が支配するアジアを作る」では、アメリカ人も兵士となるのを躊躇するだろう。

戦後、日本の『裏』の目的とアメリカの『表』の目的が議論の俎上のるが、これでは噛み合うわけが無いどころか、戦の本質がまったくつかめなくなってしまう。しかし、何の疑念を持たれることも無く、この議論が今日まで続いているのだから、如何なものかと思うしだいである。

話しを戻すと、「負けて良かった」というのは、負けてしまった方が大東亜戦争の目的が達成されたからだ。何故なら、アメリカは「民主主義を守る」ため日本と戦ったのだから、その民主主義をアジアに実現しなければならなくなる。そうでなければ大義名分が立たない。

もし、「白人支配の太平洋」を実現しようとすれば、我が国の言い分の方が正しかったことになってしまう。再び戦前のように、アジアを植民地支配しようとすれば、それではアメリカ国民も納得しないだろう。まことに皮肉なことに『表』のスローガンの為に『裏』の目的を実現できなくなってしまった。

良く日本は戦術はあるが戦略がないといわれる。しかし、とんでもない。負けて勝つという高度な戦略になっていたのだ。意図してなかったことが難点だが。

日本がアメリカに勝つ?

もし、日本がこの戦いに勝っていたらどうなったであろうか。最も、アメリカと戦って勝つということはあり得ないので、日本が勝っている間に、早期和平に持ち込むということになる。これは山本五十六の考えであった。日露戦争と同じだ。

陸軍が主張する、昭和15年に締結された日独伊三国同盟に、山本をはじめ海軍は反対していた。陸軍では石原莞爾らも反対していたが、それを結べばアメリカが日本に対し禁油措置をとり、石油が入ってこなくなる。それでは戦車、戦艦、航空機は無用の長物と化し、すでに中国と戦争中の日本は負けてしまう。満州国の放棄にも繋がりかけない。さらに対米戦争は必至となり、工業力格差が10倍のアメリカと戦えば、必ず負ける、というのがその主な主張である。果たして現実の歴史はそうなってしまった。

事ここに至り、苦肉の策として、山本五十六は真珠湾攻撃から始まる、南方資源確保の戦を画策する。ただ、それは資源確保もあったが、一年か一年半、日本優位の内に戦いを進め、アメリカ国民の厭戦気分を誘い、優位の内に和平に持ち込み、禁油措置を撤回させる。その条件として満州以外の中国及び東南アジアの全ての占領地を放棄するというものだった。

これに対し、アメリカ国民が真珠湾のだまし討ち(山本五十六の願いとは裏腹に外務省の失態に因り開戦通告が一時間半遅れた)を赦して矛を収めてくれるかどうか、はなはだ心許ない事ではあるが、一縷の望みはあったかもしれない。

ただ、そうなってしまった場合、占領したところを全部返してしまうのだから、アジアは再び白人の手に戻ることになる。これでは大東亜開放の目的は達成されない。

また、日本の世論が 弱腰だと納得もしまい。また数年も経てば、アメリカに勝ったということで、天狗となり軍国主義の様相はより濃厚となるだろう。さらには今度は日本がアジアを劣等と見下すことになりかねない。

日本が負けたからこそ、慎み深く、思いやりのある日本人の良い方の性向が優位に立ったのであり、山本の構想どうりに動けば、日本人のもつ劣悪な性向が優位に立ってしまう恐れが多分にある。

したがって、日本が負けた方が、アメリカの核の傘の元の平和とはいえ、アメリカのポチに落ちたとはいえ、70年にわたる平和を享受でき、その間、科学技術を振興できたのだから返って良かったといえる。日本人としての誇りを失ったのが難点だが。

また、戦闘は昭和20年8月15日に終わらねば成らなかった。

何故なら8月9日には、日ソ中立条約(昭和16年成立、有効期間5年)を一方的に破り満州国に進攻してきたからだ。この条約のおかげでソ連は対ドイツ戦いおいて兵力を西側に集中させることが出来た。もし日本が東より参戦したならばソ連は兵力を二分することになり、スターリングラードまで迫ったドイツ軍を撃退できなかったかもしれないのだ。日本により、きわどいところを助けられたのにも関わらず、ヨーロッパにドイツの脅威がなくなると、条約などあるものか、その矛先を日本に向けてきた。日本国憲法前文に謳われる、『他国の公正と信義』などあったものではない。

さらに驚くべきは、日本が8月15日に武装解除し無条件降伏をしているにも関わらず、8月18日には、カムチャッカ半島の南端、千島列島北端に位置すの占守(しむしゅ)島に8300余名の兵を急襲上陸させてきた。占守島では陸軍第91師団が、武装解除していたが急遽再武装して応戦し、ソ連軍に多大な損害を与え侵攻を食い止めた。戦火がやんだのは21日になってからだった。

また唯一、日本国土で国境線のあった樺太でも8月15日以降も以降も戦闘は続いていた。8月11日、国境線より侵攻を開始したソ連軍は、8月15日に塔路に、8月20日には樺太南部の真岡に上陸作戦を敢行した。日本軍は武装解除命令のもと、自衛戦闘で逐次抵抗を試み、その侵攻を遅らせた。

特に真岡では、真岡郵便電信局の電話交換手の女性9人の青酸カリ服毒自決の悲劇も生まれた。彼女らは40万人いたとされる島民の速かなる疎開の為に、ソ連軍が迫る中、最後まで電話交換業務を続けたのである。後にこの悲劇は1974年(昭和49年)「氷雪の門」として東宝で映画化されたが、ソ連の圧力により劇場公開を見送られ、幻の映画となってしまった。

思わぬ日本軍の反撃により、スターリンは当初予定していた北海道北部の占領を断念する。もし終戦の決断が8月15日より遅れれば、北海道は、否、遅れれば遅れるほど東北地方までもがソ連領となり、日本はドイツのごとく国を二分されていただろう。したがって、終戦は昭和20年8月15日を1日たりとも伸びてはいけなかったのである。

我が国に天皇制があったことが幸いした。天皇の存在がなければ、和平か交戦かいつまでも議論の決着はつかず、本土に米軍が上陸し、迎え撃つ為に一般市民が竹槍で戦い、衆寡敵せず、ズルズルと負け戦が続き、北海道はソ連の手に墜ちていただろう。まことに際どいところで終戦に持ち込めたというほかない。

太平洋の各戦線では、齟齬が連続し、神に見放されたような印象を受けるが、終戦間際には、際どいところで神に救われた印象を受けるのである。

そのように考えてみると昭和二十年八月十五日の敗戦はまことにタイムリーだったというほかないと思うが如何だろうか?。

以上、石原莞爾の説に従って最終戦争を考えてみたが、開戦は昭和16年12月8日でなければならず、終戦は昭和20年8月15日を伸びることがあってはならない。この日時が、戦うにしても、負けるにしても最良の日であったということだ。始めるのも終わるのもこれで良かったのだ。

聖戦という言葉がある。人の殺し合いに聖(ひじり)などあるものか、と思うのだが、大東亜戦争とは、どう転んでも戦わざるを得なかった戦である。歴史の必然の戦と言える。この戦により、人類の進化が、今一歩おし進められたのだ。

私が小学生の頃、日教組の先生だったのだろうか、「あの戦いに参加した兵士は犬死だ」と教えられた。とんでもない話だ。参戦された方々は責務を果たしたのである。

最後に浅野晃氏の詩集、天と海、英霊に捧げる七十二章より、「アジアの岸の歌」(66〜72章)を、項を改めて掲載させていただく。この詩は、三島由紀夫により朗読され、山本直純により作曲され、詩と朗読と音楽が一体になった、ポエムジカと呼ばれる新しい形式をとっている。

この詩はこの戦いの本質を見事に歌い上げていると思う。三島由紀夫はそれを日本民族の叙事詩であるといった。興味がある方には是非とも全てを読んでいただきたい。三島由紀夫の朗読も是非とも聴いていただきたいものと思っている。

最後に、この戦いに散華された300万余の方々、さらにはこの戦に巻き込まれ命を終わることを余儀なくされたアジア諸国の方々、また敵国として戦い戦死された方々のご冥福を謹んでお祈りいたします。また、傷病された方々のご多幸をお祈りいたします。
瞑目、合掌。




戦争をせざるを得なかった、負けてよかった
2015/08/10(Mon)

戦争をせざるを得なかった

敗戦後70年の夏が来る。昭和23年、戦後生まれの私が、私なりに、かの戦争について考えてみようと思った。すぐる大戦で散華された方々のことを思うと心が痛み、不遜な表現とは思うが、あえてこのタイトルを選んだ。読んでいただければ、私の真意はわかると思う。

なぜ、このように思ったか。私は身体均整法という整体の技術を使って30年ほど生計を立てている。この技術の創始者は故亀井進先生である。その亀井先生が整体業を営む以前、戦前は、関東軍参謀で満州国建設の立役者である石原莞爾を師と仰ぎ、その下で働いていた。

http://home.kinsei.net/kinsei/syourinnji.html

したがって私は孫弟子と言えるだろう。ならば、私にとって爺さんともなる師はどんな人だったのか興味がわいた。そこで、石原莞爾の代表的な著作、『世界最終戦論』を読んでみた。実は、かの大戦を考えてみようと思ったきっかけは、この書を読んだからである。

要約すると

・戦争には、決戦戦争と持久戦争がある。これからくる戦争は(書かれたのは昭和15年)決戦戦争で、これが最終戦争となる。
・白人至上主義と有色人種蔑視の体制をくつがえし、万民平等の世を実現するための最後の戦いである。
・東洋文明の雄である日本と、西洋文明の雄であるアメリカが争うことになり、勝者に日本がならなけらばならない。
・そのために満州国を建国し、ここに五族協和の万民平等の王道楽土の理想郷を築き、アメリカに匹敵する経済力を育て(大東亜共栄圏の確立)、その力を持って20年後(昭和35年頃)に、アメリカと最終戦争をおこなう。
・この戦が終わると、永遠に戦争のない万民平等の世界が出現する。

というものである。今ここで、この論文の根拠のあるなし、夢物語とかの評価を論ずるつもりはない。ここに書かれた内容だけ検討する。

全てがこの計画通りに動いたとして、すなわち昭和16年に大東亜戦争がはじまらず、満州国の運営がうまくいって、20年後にアジアの一角に、アメリカと肩を並べる強大な経済、消費国家が生まれたとしたら、しかし、それではアメリカと戦争などできなくなってしまう。

なぜなら、この論文の書かれた5年後には原子爆弾ができてしまうからである。

幸運が重なりアメリカとともに日本も原爆を持てたとしたも、なおさら最終戦争という熱戦(hot war = 実際に撃ち合う戦争)を起こすことなどできなくなる。
起こせば、その強大な破壊力ゆえに、両者がとも倒れとなってしまうからである。核の抑止力がはたらき世界最終戦争などできなくなってしまうのだ。最終兵器の出現により世界は戦争ができなくなると、石原莞爾は予言したが、20年を待たず、わずか5年で実現してしまったのだ。

現実の歴史をみれば、原爆が出来てしまった結果、世界は冷戦(Cold War)の時代に突入し、陰にこもった、醜怪な戦の場となってしまった。米ソの冷戦が物語る通り、その後のベトナム戦争に代表されるような、大国のエゴに振り回される代理戦争がアジアの国々で行われるようになった。

石原莞爾のいうとおりに満州国の運営が順調にいき、日本が生き残っていたら、おそらく、世界は米ソ日の三つ巴の勢力が陰惨にぶつかり合い、その間で無辜の人々が苦しむことになるだろう。

また、もし、この時、もし日本の原爆の開発が、数年アメリカより遅れることになれば、日本は理不尽な「ハルノート」を突きつけられたように、挑発された戦争に巻き込まれ、日本が負けることは必至となる。
《『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』とは、極東国際軍事裁判でインド代表判事、パール博士の言葉である。

いずれにせよ、20年後ということを想定したのならば、最終戦争を起こせない。したがって、その目的とする大東亜の解放は行われず、西洋諸国の有色人種への植民地支配は続くこととなり、アジアの解放など絵空事に終わってしまうだろう。

では、対米戦争は必要なかったのか。否であると私は思う。白人、西洋勢力中、最大の軍事力を持ち、最強の存在のアメリカと戦う必要はあったと思う。このことは歴史の必然ではなかったかと思っている。不可抗力である。ハンチントンやトインビーは認めないかもしれ無いが、これは文明の衝突なのだ。

アメリカと戦わず、挑発にものらなければ、満州国は栄え、大東亜共栄圏が実現し、アメリカに匹敵する経済圏が生まれただろうか?。
そのきわめて薄い可能性はあるかもしれない。だが、中国、朝鮮、他アジア諸国の日本への反発も相当なものになるのではないか。アジアの独立よりも、日本への反日の方が大きくなり、それを米ソが後押し、それを抑えるべく民衆の弾圧繰り返しことになり、本来の目的を見失うことになりはしないか。

あるいは満州を放棄し日本のみが白人勢力とともにアジアの一角で栄えることはできるかもしれない。だが、それではアジアやアフリカは解放はどうなる?。その解放は50年、ことによると100年は待たなければならないのではないか。

『十九世紀の西欧においては、白人民族同士の戦乱状態が常習的に行われており・・東方を望めば、瓦解した諸帝国が、トルコから中国にいたるまでアジアの全大陸にその残骸をならべていて・・いたるところの原住民らは、羊のごとく従順にその毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。敢えて反抗しようとはしなかったのである。日本人だけが全く違った反応を示した。しかし、日本人はきわめて珍しい除外例であり、かえって原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ(トインビー)』

この状態を日本は座視できるかどうか?。多くの日本人には到底耐えられなかったのではないかと思う。隣で暴行を受けているものを見て、黙って見過ごせないのと同じだから。もっとも、今日では、暴力はいけないから、手を出してはいけないという人もいるようだが?。最近の日本人は変わってしまったから当時の状態がわからなくなってしまっているようだ。

林房雄の「大東亜戦争肯定論」「緑の日本列島」読むと、この戦いを100年のスパンでみなければならないと言っている。つまり昭和16年の12月8日から20年8月15日の3年8ヶ月の戦いではなく、1853年の黒船の来航から始まり、1945年で終わる、およそ100年の戦争と見るべきだというのである。

徳川260年余の太平の眠りが破られた時、目を世界に転ずれば、インド、中国、ベトナム、カンボジア、朝鮮など、タイを除くアジア諸国が、さらにはアフリカの国々が西洋列強の植民地となっていた。

驚愕すると同時に、その力の源泉を産業革命に見出し、自らも科学技術を振興することにより、その力を得て、国内の革命を成就し、さらにはその勢いをもって、アジア、アフリカでの白禍を防ぐ、これが日本人の魂の底に秘められた思いとなった。

幕末当時の薩摩藩主、名君と言われた島津成彬は「大陸出撃策」という考えを抱いていたという。

『出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。1日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えしめ、日本と連合するときは、英仏といえども恐にるたりない。然るに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を視ること属国の如く、日本より連合を申し出ても耳をかたむけるどころではない。故に、我より出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐを上策となす』

中国に「共に手を携えて西洋列強の侵略を防ごう」と言っても、中国は驕り高ぶっていて、日本のいうことなぞ聞く耳を持たない。仕方がないので、日本から出向いて彼の国の鼻っ柱をへし折り、政治改革のお手伝いをして、その後、改革され刷新された中国と手を携えて、西洋列強に対峙しよう言うことだ。

同じような考えは、藤田東湖、橋本左内などにも見られる。国内の改革が成就すれば、次の同胞アジアの解放と考えるのは自然の成り行きだったろう。総じて言えることはアジアを統一し持って西洋列強に対峙するというものだ。

明治維新は国内の革命を実現することだけではなかったのである。当時の代表的な知識人の考え方だけではない。一般庶民にもその考え方は浸透していた。おそらく日本人のコア・パソナリティーと言うべきものになっていたと林房雄は言っている。私もそう思う。だからこそ、日清、日露、大東亜解放の戦いを、何の矛盾もなく多くの国民が受け入れてのだ。つまり、大東亜戦争はおよそ100年前に計画されて、世代を経て受け継がれて行くうちに潜在化され、いつの間にか無意識的に我々には戦うことが自明の理となっていたのだ。

大東亜戦争の目的は「侵略」だったとわれわれは教わっている。しかし、世界を揺るがした大戦の目的が「侵略するから、この戦いに参加せよ」などという、あほうなスローガンだったと言うのか?。こんなスローガン信じてわれわれの親父たちが戦に馳せ参じたのか。こんなスローガンでは人は動くはずがない。しかし、おかしなことに日本の戦争目的は今日まで「侵略」ということに馴れて、多くの国民が疑っていない。おかしいだろう。

大東亜戦争は西洋列強と、その優たるアメリカとの戦いで、その大戦初期に日本が善戦し、アジア、アフリカの有色人の同胞に自信と希望を与えたということは紛れもない歴史の事実である。石原莞爾の予言通り、白窩を駆逐し、有色人種を解放するためには、日本と欧米列強は戦う必要があった。それが歴史の必然だったと私は思っている。

しかし、その時は、先にあげた理由で石原莞爾のいう20年後(昭和35年ごろ)では無理である。では、その時はいつなら良かったか?。

開戦の時は、いつならば良かったか?

私は昭和16年12月8日が最良の時だったと思うのである。このころを境に、我が国の航空機は機体設計(エンジンなどは遅れていた)の分野で西洋を一頭地凌駕しつつあった。

近代戦は制空権を制したものが勝利すると言われているが、昭和15年は零戦が中国大陸で実戦投入され活躍しだした時期である。初戦は9月12日で13機の零戦で、中国空軍の戦闘機33機と交戦し27機を撃墜した。零戦は一機も失われなかった。

以来、『初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機のみで、空戦による被撃墜機は無いまま、 太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった。

太平洋戦争緒戦
 太平洋戦争緒戦において零戦は、空戦性能において卓越し、グラマンF4Fワイルドキャットなどに対し、1942年8月連合国によるガダルカナル侵攻まで連戦連勝で優勢だった。また、零戦は2200キロの航続距離を持っていたが、当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し帰ってくることは夢物語であった。

 零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力のほとんどを撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって連合軍将兵の心の中に零戦は「無敵」という神話をうえつけた。

 当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは零戦より、速度・上昇力・旋回性能のすべてにおいて劣っていた。

 海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機すなわち83%を占めた。太平洋戦争のはじめの一カ月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65%であった。日本軍の全戦略はこの飛行機の成功にかかっていた。(ウイキペディアー零式艦上戦闘機)』

しかし、こうした初戦の戦果も、日本への侮りと、情報不足からくるもので、軽量化のため防弾装備がない弱点を知られてしまえば、徐々に挽回され、日本に比して10倍の工業力を持つと追われるアメリカが、対戦中期より零戦に倍する2,000馬力級の新鋭機を陸続と開発してくるころには、優位性は完全に失われてしまう。

もし、開戦が昭和17年あるいは18年に伸びたとすると、秘匿された我が国の航空機の情報も明らかになり、対抗策が取られ、真珠湾の勝利、マレー沖の浮沈艦と言われたイギリス東洋艦隊プリンス・オブ・ウェールズ、同レパルスの撃沈などはなかったことになるだろう。

つまり、アメリカと最後の決戦戦争(最終戦争)を行うには、皮肉なことに昭和16年が、彼我の工業力の差が10倍という、この時期がもっとも適していたということになる。

12月8日の開戦について

12月8日については、フジテレビの番組『鶴瓶と南原、日本のよふけ』(確か2002年ごろ)で、瀬島龍三との興味深い話があった紹介しておく。

記憶をたどれば、鶴瓶と南原が瀬島龍三に「あの戦争でアメリカに勝つと思いましたか?」と問いかける。
瀬島は「鶴瓶さん南原さん、戦というものは、今も織田信長のような昔も変わりません。城を取って勝つと言えるのです。アメリカの城はどこですか?」と反対に問いかける。
鶴瓶、南原「ワシントンですか?」
瀬島「そうです。ワシントンを落とせると思いますか?」
鶴瓶、南原「無理でしょう」
瀬島「そうです無理です。支那でさえ攻めあぐんでいるのですから、ワシントンを落とすなどは到底不可能です。日本の工業力の10倍のアメリカを相手にできるなどとは、あの当時の軍人のどんな夢想家も思っていませんでした。
鶴瓶、南原「ではなんで戦争したのですか?」
と悲鳴のような問いかけが続く。

それに瀬島が答える。この後話を要約すると、ABCD包囲網による禁油政策により、日本に一滴の石油も入らなくなった。昭和16年12月8日は備蓄している石油を食いつぶす日であること。石油がなければ、軍艦も飛行機も飛ばせず、兵の訓練など出来ず、軍艦や飛行機や戦車は有っても、中国との戦争に座して負けてしまう。止むに止まれず、座して死を待つより、南方の石油資源確保のために、自衛の戦争をしなければならなかった。といっていた。

こうした背景で戦争が始まってしまったが、石原莞爾は昭和16年に日米開戦は時期尚早であると唱え、官職を辞して野に下り、米国と戦争をする愚を訴えて東条内閣を糾弾した。この運動に我が亀井先生も参加していたが、かく考えてくると、皮肉なことに、日米最終戦争の最良の開始日は20年後ではなく、論文の出された翌年だったのである。




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