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鍾馗考 その2
鍾馗考 その1
天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
戦争せざるを得なかった、負けてよかった2
戦争をせざるを得なかった、負けてよかった
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鍾馗考 その2
2016/04/04(Mon)

IL-2(コンバットフライトシム)で、鍾馗を駆って列強の主な戦闘機と空中戦を行ってみました。その結果を動画にしてYouTubeにアップしました。

鍾馗対P38
双同の悪魔と恐れられたP38との空中戦。
https://youtu.be/i-R8asCFYJA

鍾馗対スピットファイアー
さすが旋回戦に強いスピットファイアーです。なかなか勝てません。
https://youtu.be/fSsXGhZ2p_c

鍾馗対F4U(コルセア)
鍾馗は右エルロンを失った状態で戦い健闘しましたが、しかし最後は残念なことに………
https://youtu.be/R_jhFHiBqZQ

再びF4Uコルセアと対決。ついでにF4Fとも。
F4Uコルセアにリベンジ。ついでにF4Fもやっつけちゃいます。(;゚д゚)ァ….
https://youtu.be/QZELApGLLqE

鍾馗対零戦キラーのF6F。どちらの機体もコンピュータが操縦します。
なので性能の良い方に分があります。また、見てるだけなのでお気楽です。
https://youtu.be/D88ht7QrErM

最強の名機といわれるP51との対戦。
層流翼はもろかった?
https://youtu.be/5B2_RTrZ1aw

と、いろいろ試しました。その感想は、ひとことで言えばパワフルの一言につきます。日本機らしからぬ強力さに加えて、運動性も旋回性能も蝶型フラップを効果的に使えば、アメリカ機などより良さそうな感じです。この感想は鍾馗に当時下された「重い、旋回戦に不向き、着陸が困難」などの評価とは程遠いものになりました。IL-2というフライトシムを通じて、私は鍾馗は零戦、隼よりも名機だと思うようになりました。鍾馗はもっと大きく評価されるべきです。

もっとも、このシムはロシア製なので、アメリカ機は若干弱く、ヨーロッパは強いように、プログラムが設定されている気がしないでもない。そんなことから現実を正しく反映しているかどうか疑わしいのですが、それでも零戦や隼という軽戦(軽く造られ旋回戦に優れる)に分類される戦闘機と違い、鍾馗は重戦(パワーと防弾を主眼に一撃離脱の攻撃を得意とする)の特徴を如何なく発揮してくれました。それは実際の鍾馗に下された評価と一致しています。

しかし、その高性能な割には、歴史上、実際の戦場では、鍾馗はあまり活躍していません。零戦や隼と同時期の1942年に実戦配備されていたのに、大東亜戦争の初戦において活躍する場面はほとんどないのです。製造数も1,200機弱と、零戦の1万機、隼の5,000機と比べて、開戦当初から造られていたにしては少ないのです。名機ならばもっと造られて良いはずです。鍾馗は大戦末期に出てきて日本機を大いに悩ませた2,000馬力級の先進的な戦闘機とも互角に渡り合える性能があるに、これはどうしたことなのでしょうか。

調べてみると、その理由は、航続力が3,000キロを越す零戦や隼と比べて、鍾馗は1,500〜1,600キロ(落下タンク使用)と、短いことが原因でした。

しかし、これはおかしい。ヨーロッパ戦線で戦っていたスピットファイアやメッサーシュミットの航続距離は多くても900キロ前後です。鍾馗の方が1.5倍以上も飛ぶことができます。また、日本軍機が大戦初期にもっともよく戦った、米軍のF4Fは1,300キロを少し超えるくらいです。鍾馗の方が長く飛べます。F6Fは1,520〜2,500キロですから、欧米の戦闘機と比べて航続力において遜色はないのです。したがって、もっと活躍できたはずなのですが、現実ははそうなっていません。これはどうしたことなのか、このように考えていたら、あることに気がつきました。

日頃、我々が慣れ親しんでいる、地図の表記法は、メルカルト図法といって、いわば地球儀を円筒状に見立てて表記された地図です。したがって赤道の幅でヨーロッパ大陸を見ていています。我々はこれに慣れているために、なんの疑問も感じてはいません。しかし、地球は球体だから南北の極に近づくほど実際の距離は狭くならなければならないのです。ヨーロッパ大陸は我々が地図で見ているより狭いのです。

1940年、ドイツ空軍とイギリス空軍の間で行われた大空中戦(バトル・オブ・ブリテン)で戦われた距離は、ロンドンとパリ間の340キロ程度です。東京から京都までの370キロの方が遠いのです。たったこれだけの距離なのに、ロンドンまでいって戦ったメッサーシュミットの何割かは燃料が尽きて基地まで帰ってこられずにドーバ海峡の冷たい水の中に沈みました。

また、連合軍とドイツ、双方の爆撃機が飛んだロンドンとベルリン間は940キロで、東京から鹿児島までの966キロより少ないのです。にもかかわらず、護衛戦闘機が飛べないため、護衛を伴わないで飛んでいたB17(爆撃機)はよく落とされました。ちなみに零戦が飛んだラバウルからガダルカナル島までは1,065キロです。

さらに、東部戦線では、ドイツはソ連のスターリングラードまで兵を進めますが、戦線が伸びきったため補給を続けられず破れました。そのベルリンからスターリングラードまでの距離は1,330キロ程度です。東京から沖縄までの1,560キロですから、ドイツは日本列島の半分程の距離でさえ補給を続けられなかったということになります。逆に言えば日本列島の距離での補給は困難を極めるということになりますね。北の北海道、網走市から南の鹿児島県、枕崎市までは1,870キロなのですから。

日本は、南はインドネシアやニューギニア、北はキスカ島やアッツ島のあるアリューシャン列島を作戦範囲としていました。ニューギニアの激戦地ラバウルまでは東京から4,623キロ。アリューシャン列島のアッツ島やキスカ島までは3,500キロ。

我が国は、およそ8,000キロを超える地域を作戦範囲としなければならなかったのです。この距離は北京からベルリンまでが7,370キロ程度ですから、陸上にしたらアジア大陸のみならずヨーロッパ全土を支配したに等しい距離になります。距離だけで考えれば、歴史上のどんな大帝国も支配したことない地域を一時期でも支配していたことになります。日本の陸海軍部はおそらくドイツが支配した地域の10倍を超える面積で作戦を立てなければならなかったはずです。

サイパン島が落ちてB29が東京を爆撃し始めましたが、東京とサイパン島の距離は2,360キロ。B29の航続距離6,600キロ(爆弾搭載時)があって初めて可能になりました。ベルリンを爆撃したB17の航続距離は3,200キロ(爆弾搭載時)ですから、B17では日本本土の爆撃など不可能だったことになります。

こういうことを考えると、ゼロ戦や隼の3,000キロを超える航続力が如何に必要とされていたかがわかります。確かに鍾馗の活躍できる距離ではなかったのです。

『 ヨーロッパと太平洋戦線では、戦場の広さや事情が全く異なっている。その点で、陸軍は選択を誤ることなく、太平洋戦争の主力戦闘機に隼を選んだ。中島は、隼の潜在能力である3,000キロを超える長大な航続力を引き出し、さらに武装の強化と蝶型空戦フラップの採用で軽快な運動性を兼備した戦闘機を完成させた。……………
 緒戦における隼の活躍には、次のようなものがある。
 第一に、長大な航続力を駆使してマレー半島上陸部隊輸送船団の護衛任務を果たし、ついで、マレー、フィリピンなどの極東地域の英米航空戦力役300機以上を、零戦、97戦、鍾馗などとともに開戦大一日目に殲滅して、海軍が強行出撃してきた英東洋艦隊をマレー沖海域において撃滅するのに貢献した。
 続いて二ヶ月の後、オランダ領スマトラのパレンバン製油所奇襲にあたっては、海軍機と強力して陸軍の空挺作戦を援護し、さらにはビルマ方面の英空軍を撃砕するなど、縦横無尽の活躍をしている。
 このような作戦は、メッサーシュミットや鍾馗のようなスピードはあっても航続力の短い戦闘機では無理な相談で、隼を主力戦闘機としたことは正しい選択であった。(中島戦闘機設計者の回想:青木邦弘著)』

ということで、距離こそが、鍾馗を第一線で活躍させ得なかった原因のようです。しかし、第二次大戦、わけても大東亜戦争(太平洋戦争ではありません、これはアメリカが言うことで、日本は大東亜の解放を目指して戦ったのですから)において、この距離を考慮に入れ考察された論調は無いといってよいでしょう。零戦や隼は航続距離が長かったとは聞きますが、それが何故なのか、欧州の作戦とどのように違うのか、には誰もそれに答えてはこなかったように思います。わずかに青木邦弘氏の論調にそれを見いだすのみです。戦史をこの距離という観点から、もう一度見直す必要があると思います。

日本軍機の防弾思想について

それを見直すということで、日本軍機の防弾について考えてみます。

零戦に防弾装備がないことで、零戦の強さの秘密を暴こうとして躍起になっていた、米軍の調査チームが驚いたようですが、私は当初、この防弾せずは「武士道というは死ぬことと見つけたり」という葉隠に連なる日本人独特の思想だと思っていました。よく言えば死を恐れない、悪く言えば命を粗末にあつかうことになりますが、日本人ゆえの感性からくるものと思っていました。

しかし、実際は、陸軍戦闘機で防弾のないのは一式戦の隼の1型のみで、2型、3型となるにつれて防弾は強化されていったようです。隼(キ43)と同時にできた二式戦の鍾馗(キ44)には開発当初から防弾はしっかりと考慮されていました。三式戦の飛燕、四式戦の疾風、五式戦は言わずもがなです。したがって戦闘機に防弾を施さなかったのは海軍だけのようなのです。

海軍は零戦に防弾をつけなかったのみならず、爆撃機の一式陸攻などにもつけてはいません。だから米軍からワンショットライターなどと揶揄されました。爆撃機は動きが鈍く、戦闘機のように機敏に動いて射弾を回避することができません。打たれることが宿命のような機体なのですから、防弾をつけないのは愚の骨頂と言わねばなりません。

しかし、距離ということを考慮にいれて考えてみますと、海軍機は陸軍機と違い、洋上を飛ぶことを主とします。陸上を飛べば、燃料が尽きても不時着すれば生き延びられる可能性が十分にあります。しかし海上ではそうはいかない。海に落ちればそのまま死につながるでしょう。わずかでも燃料があり、その分飛ぶことができれば、どこかの島にたどり着けるかも知れません。パイロットの命は一滴の燃料に左右されると言えるでしょう。したがって防弾をする余地があれば、その分燃料を積もうと考えるのが人情というものかもしれないと思うようになりました。

防弾か航続力(燃料)か、お前ならどちらを選ぶ?、と問われれば、私も燃料の方を選ぶと思います。ですから海というものの恐ろしさが、海軍の作戦の潜在的なプレッシャーなっていたのではないでしょうか。だから無意識的に航続力を優先させてしまったように思います。防弾を優先させ得なかった、一番の理由は、今まで言われていた人命軽視の傾向より、日本軍が占領した、あまり長すぎる「距離」だったと言えるのではないでしょうか。

以上、鍾馗を飛ばして思ったことを書いてみました。それにしても、この距離を考えると、しなければならなかった戦(いくさ)とは言え、日本は、なんとも無茶苦茶な戦いをしていたものだと、つくずく思う次第です。





鍾馗考 その1
2016/04/03(Sun)

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私の趣味はフライトシミュレータで遊ぶことです。使っているフライトシムソフトはX−PlaneとIL−2ですが、X−Planeは平和の翼、IL−2は戦いの翼といったところでしょうか。

X−Planeはアメリカ連邦航空局(FAA)の飛行訓練用のシミュレーションソフトとして認められているもので、私はこれでバーチャル飛行免許を取ってやろうと訓練に励んでいます?。IL−2は第二次大戦が舞台のコンバットフライトシミュレーションゲームです。これで空中戦をたのしんでます。

このブログで、それらをご紹介しようと思っていたのですが、あれこれあって手が回らずのびのびになっていました。今回は、その重い腰をあげ、私の大好きな機体、陸軍二式単座戦闘機「キ44、鍾馗」を紹介してみたいと思います。

写真はX-Planeで飛ばしている鍾馗です。(平和の翼でも軍用機は飛びます)

写真1は調布飛行場上空1万メートルです。爆撃機のエンジンを積んだ大きな頭部と短い翼(翼面荷重が高い)が特長です。(真下に調布飛行場と味の素スタジアム、後方は多摩川)

写真2は、高度、位置は同じで、東京湾が望めます。向こうが房総半島、三浦半島も見えます。

写真3 1万メートルでは雲は下の方にあります。B29はこの高度で侵入し東京に爆弾を落として行きました。零戦や隼がここまで登ることは容易ではありません。鍾馗の大きく、大馬力のエンジンでかろうじて可能になります。

零戦や隼に名声に隠れて鍾馗はあまり目立ちませんが、これは大変な名機なのです。日本の宇宙開発、ロケット開発の父と言われた糸川英夫博士が若い頃、設計に携わりました。名だたる陸軍戦闘機「隼の」の設計も行いました。それで、2010年、宇宙探査機はやぶさが小惑星イトカワを訪れ、サンプルリターンを成功させましたが「はやぶさ」「イトカワ」の名前の由来はここから来ています。

その糸川博士が、『一式戦「隼」は時宜を得て有名だが、自分の最高傑作だと思っているのは、その次に設計した「鍾馗」である』と言っています。

また、戦後、日本陸海軍の軍用機を調査した米海軍航空情報部(TAIC)は、『急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)し、インターセプター(迎撃戦闘機)として、もっとも適切(Suitable)な機体』と言ってます。

鍾馗はもっと見直されてよい機体なのです。





天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
2015/08/12(Wed)

天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
 浅野晃  朗読 三島由紀夫 作曲・指揮 山本直純

30
ながいながい夜だった
彼らは耳を傾けてゐた
じつにいろいろの声が
語りかけて来たから
父なる声
母なる声
姉なる声
師なる声
友なる声
逝いて遠い友の声さへ
かれらは見たのだ
めいめいの持場にあって
美しい形を
まだ生まれない前に見た
数々の美しい形を
見たのだ
責務といふ名のもとに

66 アジアの岸の歌

曾て不毛の河辺に
寝ずの番してゐた彼らであった

天のどんな予兆も聞きのがすまゐと
全身を耳にしてゐた彼らであった

影に充ちた夜であった
草はやはらかく幼子のように
眠ってゐた
君たちもどこか草のように幼子めいて
見えていた

満点の星は身をふるわせて
縛されたされた女性を凝視してゐた
アジアという名の漠たる女性は
漠たる永い夜に縛されてゐた

あの刻 彼らの耳は
何をきいたのか

さかしらな人間があやつる舞台が音たてて
廻っただけなのか けれど
そんなことが 君らの願ひと
何のかかはりがある

君たちは装いを改めた
争って祖国の急に赴いた

花のような羞ぢらひのなかに
五月の夜よりもかぐはしく

やさしい思い出とも別れ
答えなき天に
おのれの影を投げながら

ひとり世を超え
おそれもなく
ためらいもなく

意味ありげなものの虚妄を
悪しく意味づけられたものの虚妄を
はげしく拒み また拒み

人みなが冷たしと見る
アジアの岸の夜明け前に
虚妄の意味を焼きつくし
おのれひとつの焔を燃えて

おそれもなく
ためらひもなく
花のような羞ぢらひのなかに
五月の夜よりもかぐはしく

聖なる戦いの真実を
おのれひとつに証(あかし)しして
闇の汐にの呑まれていった

君ら運命を超えて逝ったものよ
いまこそ 魂を鎮めるとき

67
われらが尽きぬ夏の日は
青い海が白い船を逝かせ
渚に光あふれ
瞳燃え
いかに永い別離が
われらを捉え
はるかな夜にさまよわせようとも
いつもここで
わたしらは出会ふ
生きるかぎり のちの世までも

68
ミンドロの岬から
シブヤンの水道から
スリガオの海峡から
デナガットの海から
ミンダナオの海から
サン・ベルナルデイノの迫門(せと)から
パラワンの島から
スルアンの島から
エンガノの沖から
サマールの沖から
レイテの沖から
サイパンの島から
テニヤンの島から
グアムの島から
アンガウルの海から
ハルマヘラの海から
パラオの島から
ヤップの島から
トラックの島から
ルオットの島から
クェゼリンの島から
タラワの島から
マキンの島から
ペリリューの沖から
モロタイの沖から
ビアクの島から
ニユーギニアの岸から
ブーゲンヴィルの島から
ソロモンの海域から
ツラギの島から
ガダルカナルの島から
ルンガの泊地から
ミッドウェイの海から
アッツの島から
帰って来い
帰って来い
帰って来い

69
赤道の秋
ひややかにうねりを返す浪の背に
祖国の声が 青い天から
呼んでゐる
捧げた君らの
尊い名を

70
静謐で清淨な空間を充たす
無尽の光
このひたすらな挺身者
時は いま 重い足どりで
歩いている
偽りの歴史を
じっくりと溶かすべく

71
すべては逝く
知つてゐたその人も逝く
録されたすべては亡びる
けれど記憶は殘る
けれど天は忘れない
すこやかにありし日のまま

72
死を超へて
なほも多くの日付がある

天と海 (完)


天と海

昭和40年(1965) 浅野晃 「天と海 英霊に捧げる七十二章」出版
昭和42年(1967) 三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化

『「天と海」の主部は、スンダ海峡を漂流しながら見たバタビヤ沖の海戦の強烈な印象が元になっている。輸送船団はみな錨をおろし、上陸ははじまっていた。その時私らの佐倉丸は、魚雷二発をうけて沈没したのであった。
 終戦とともに私どもは北海道にのがれ、勇払(ゆうふつ)の曠野に五年住んだが、その間、思いは多くの戦いの終始、わけても若くして国に殉じたおびただしい英霊の上に走った。自然、「天と海」は、北の曠野にあって、遠く南溟を思う格好になった。私はこの一作に微力を尽くした。戦後20年を便々と生き存えた罪も、これで幾分かは償われたような気さえした。………「謝辞」より』

『「天と海」は、叙情詩であると共に叙事詩であり、一人の詩人作品であると共に国民的作品であり、近代史であると共に万葉集にもただちにつながる古典詩であり、その感動の巨大さ、慟哭の深さは、ギリシャ悲劇、たとえば、アイスキュロスの「ペルシャ人」に匹敵する。この七十二章を読み返すごとに、私の胸には、大洋のやうな感動が迫り、国が敗れたことの痛恨と悲しみがひたひたと押しよせてくる。浅野晃氏は、日本の詩人として最大の「責務」を果たしたのである。………三島由紀夫』




戦争せざるを得なかった、負けてよかった2
2015/08/11(Tue)

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負けて良かった

「負けて良かった」というのは、この大戦の本質はここにあったと思うからである。

大東亜戦争はアジアの解放を目指した戦いである。勿論、表向きのスローガンには違いない。しかし、この言葉を信じ、鼓舞されて我が国民は戦ったのである。裏に経済侵略という目的もあっただろうが、「中国やアジアを侵略するから、この戦に集え」ということを信じて人が動いたのではない。何事にも物事には裏表があるものだ。

アメリカだって同じである。「民主主義を守る」と言うのが表なら、「白い太平洋(白人が支配する太平洋=林房雄)」が裏の目的である。しかし、スローガンが「白人が支配するアジアを作る」では、アメリカ人も兵士となるのを躊躇するだろう。

戦後、日本の『裏』の目的とアメリカの『表』の目的が議論の俎上のるが、これでは噛み合うわけが無いどころか、戦の本質がまったくつかめなくなってしまう。しかし、何の疑念を持たれることも無く、この議論が今日まで続いているのだから、如何なものかと思うしだいである。

話しを戻すと、「負けて良かった」というのは、負けてしまった方が大東亜戦争の目的が達成されたからだ。何故なら、アメリカは「民主主義を守る」ため日本と戦ったのだから、その民主主義をアジアに実現しなければならなくなる。そうでなければ大義名分が立たない。

もし、「白人支配の太平洋」を実現しようとすれば、我が国の言い分の方が正しかったことになってしまう。再び戦前のように、アジアを植民地支配しようとすれば、それではアメリカ国民も納得しないだろう。まことに皮肉なことに『表』のスローガンの為に『裏』の目的を実現できなくなってしまった。

良く日本は戦術はあるが戦略がないといわれる。しかし、とんでもない。負けて勝つという高度な戦略になっていたのだ。意図してなかったことが難点だが。

日本がアメリカに勝つ?

もし、日本がこの戦いに勝っていたらどうなったであろうか。最も、アメリカと戦って勝つということはあり得ないので、日本が勝っている間に、早期和平に持ち込むということになる。これは山本五十六の考えであった。日露戦争と同じだ。

陸軍が主張する、昭和15年に締結された日独伊三国同盟に、山本をはじめ海軍は反対していた。陸軍では石原莞爾らも反対していたが、それを結べばアメリカが日本に対し禁油措置をとり、石油が入ってこなくなる。それでは戦車、戦艦、航空機は無用の長物と化し、すでに中国と戦争中の日本は負けてしまう。満州国の放棄にも繋がりかけない。さらに対米戦争は必至となり、工業力格差が10倍のアメリカと戦えば、必ず負ける、というのがその主な主張である。果たして現実の歴史はそうなってしまった。

事ここに至り、苦肉の策として、山本五十六は真珠湾攻撃から始まる、南方資源確保の戦を画策する。ただ、それは資源確保もあったが、一年か一年半、日本優位の内に戦いを進め、アメリカ国民の厭戦気分を誘い、優位の内に和平に持ち込み、禁油措置を撤回させる。その条件として満州以外の中国及び東南アジアの全ての占領地を放棄するというものだった。

これに対し、アメリカ国民が真珠湾のだまし討ち(山本五十六の願いとは裏腹に外務省の失態に因り開戦通告が一時間半遅れた)を赦して矛を収めてくれるかどうか、はなはだ心許ない事ではあるが、一縷の望みはあったかもしれない。

ただ、そうなってしまった場合、占領したところを全部返してしまうのだから、アジアは再び白人の手に戻ることになる。これでは大東亜開放の目的は達成されない。

また、日本の世論が 弱腰だと納得もしまい。また数年も経てば、アメリカに勝ったということで、天狗となり軍国主義の様相はより濃厚となるだろう。さらには今度は日本がアジアを劣等と見下すことになりかねない。

日本が負けたからこそ、慎み深く、思いやりのある日本人の良い方の性向が優位に立ったのであり、山本の構想どうりに動けば、日本人のもつ劣悪な性向が優位に立ってしまう恐れが多分にある。

したがって、日本が負けた方が、アメリカの核の傘の元の平和とはいえ、アメリカのポチに落ちたとはいえ、70年にわたる平和を享受でき、その間、科学技術を振興できたのだから返って良かったといえる。日本人としての誇りを失ったのが難点だが。

また、戦闘は昭和20年8月15日に終わらねば成らなかった。

何故なら8月9日には、日ソ中立条約(昭和16年成立、有効期間5年)を一方的に破り満州国に進攻してきたからだ。この条約のおかげでソ連は対ドイツ戦いおいて兵力を西側に集中させることが出来た。もし日本が東より参戦したならばソ連は兵力を二分することになり、スターリングラードまで迫ったドイツ軍を撃退できなかったかもしれないのだ。日本により、きわどいところを助けられたのにも関わらず、ヨーロッパにドイツの脅威がなくなると、条約などあるものか、その矛先を日本に向けてきた。日本国憲法前文に謳われる、『他国の公正と信義』などあったものではない。

さらに驚くべきは、日本が8月15日に武装解除し無条件降伏をしているにも関わらず、8月18日には、カムチャッカ半島の南端、千島列島北端に位置すの占守(しむしゅ)島に8300余名の兵を急襲上陸させてきた。占守島では陸軍第91師団が、武装解除していたが急遽再武装して応戦し、ソ連軍に多大な損害を与え侵攻を食い止めた。戦火がやんだのは21日になってからだった。

また唯一、日本国土で国境線のあった樺太でも8月15日以降も以降も戦闘は続いていた。8月11日、国境線より侵攻を開始したソ連軍は、8月15日に塔路に、8月20日には樺太南部の真岡に上陸作戦を敢行した。日本軍は武装解除命令のもと、自衛戦闘で逐次抵抗を試み、その侵攻を遅らせた。

特に真岡では、真岡郵便電信局の電話交換手の女性9人の青酸カリ服毒自決の悲劇も生まれた。彼女らは40万人いたとされる島民の速かなる疎開の為に、ソ連軍が迫る中、最後まで電話交換業務を続けたのである。後にこの悲劇は1974年(昭和49年)「氷雪の門」として東宝で映画化されたが、ソ連の圧力により劇場公開を見送られ、幻の映画となってしまった。

思わぬ日本軍の反撃により、スターリンは当初予定していた北海道北部の占領を断念する。もし終戦の決断が8月15日より遅れれば、北海道は、否、遅れれば遅れるほど東北地方までもがソ連領となり、日本はドイツのごとく国を二分されていただろう。したがって、終戦は昭和20年8月15日を1日たりとも伸びてはいけなかったのである。

我が国に天皇制があったことが幸いした。天皇の存在がなければ、和平か交戦かいつまでも議論の決着はつかず、本土に米軍が上陸し、迎え撃つ為に一般市民が竹槍で戦い、衆寡敵せず、ズルズルと負け戦が続き、北海道はソ連の手に墜ちていただろう。まことに際どいところで終戦に持ち込めたというほかない。

太平洋の各戦線では、齟齬が連続し、神に見放されたような印象を受けるが、終戦間際には、際どいところで神に救われた印象を受けるのである。

そのように考えてみると昭和二十年八月十五日の敗戦はまことにタイムリーだったというほかないと思うが如何だろうか?。

以上、石原莞爾の説に従って最終戦争を考えてみたが、開戦は昭和16年12月8日でなければならず、終戦は昭和20年8月15日を伸びることがあってはならない。この日時が、戦うにしても、負けるにしても最良の日であったということだ。始めるのも終わるのもこれで良かったのだ。

聖戦という言葉がある。人の殺し合いに聖(ひじり)などあるものか、と思うのだが、大東亜戦争とは、どう転んでも戦わざるを得なかった戦である。歴史の必然の戦と言える。この戦により、人類の進化が、今一歩おし進められたのだ。

私が小学生の頃、日教組の先生だったのだろうか、「あの戦いに参加した兵士は犬死だ」と教えられた。とんでもない話だ。参戦された方々は責務を果たしたのである。

最後に浅野晃氏の詩集、天と海、英霊に捧げる七十二章より、「アジアの岸の歌」(66〜72章)を、項を改めて掲載させていただく。この詩は、三島由紀夫により朗読され、山本直純により作曲され、詩と朗読と音楽が一体になった、ポエムジカと呼ばれる新しい形式をとっている。

この詩はこの戦いの本質を見事に歌い上げていると思う。三島由紀夫はそれを日本民族の叙事詩であるといった。興味がある方には是非とも全てを読んでいただきたい。三島由紀夫の朗読も是非とも聴いていただきたいものと思っている。

最後に、この戦いに散華された300万余の方々、さらにはこの戦に巻き込まれ命を終わることを余儀なくされたアジア諸国の方々、また敵国として戦い戦死された方々のご冥福を謹んでお祈りいたします。また、傷病された方々のご多幸をお祈りいたします。
瞑目、合掌。




戦争をせざるを得なかった、負けてよかった
2015/08/10(Mon)

戦争をせざるを得なかった

敗戦後70年の夏が来る。昭和23年、戦後生まれの私が、私なりに、かの戦争について考えてみようと思った。すぐる大戦で散華された方々のことを思うと心が痛み、不遜な表現とは思うが、あえてこのタイトルを選んだ。読んでいただければ、私の真意はわかると思う。

なぜ、このように思ったか。私は身体均整法という整体の技術を使って30年ほど生計を立てている。この技術の創始者は故亀井進先生である。その亀井先生が整体業を営む以前、戦前は、関東軍参謀で満州国建設の立役者である石原莞爾を師と仰ぎ、その下で働いていた。

http://home.kinsei.net/kinsei/syourinnji.html

したがって私は孫弟子と言えるだろう。ならば、私にとって爺さんともなる師はどんな人だったのか興味がわいた。そこで、石原莞爾の代表的な著作、『世界最終戦論』を読んでみた。実は、かの大戦を考えてみようと思ったきっかけは、この書を読んだからである。

要約すると

・戦争には、決戦戦争と持久戦争がある。これからくる戦争は(書かれたのは昭和15年)決戦戦争で、これが最終戦争となる。
・白人至上主義と有色人種蔑視の体制をくつがえし、万民平等の世を実現するための最後の戦いである。
・東洋文明の雄である日本と、西洋文明の雄であるアメリカが争うことになり、勝者に日本がならなけらばならない。
・そのために満州国を建国し、ここに五族協和の万民平等の王道楽土の理想郷を築き、アメリカに匹敵する経済力を育て(大東亜共栄圏の確立)、その力を持って20年後(昭和35年頃)に、アメリカと最終戦争をおこなう。
・この戦が終わると、永遠に戦争のない万民平等の世界が出現する。

というものである。今ここで、この論文の根拠のあるなし、夢物語とかの評価を論ずるつもりはない。ここに書かれた内容だけ検討する。

全てがこの計画通りに動いたとして、すなわち昭和16年に大東亜戦争がはじまらず、満州国の運営がうまくいって、20年後にアジアの一角に、アメリカと肩を並べる強大な経済、消費国家が生まれたとしたら、しかし、それではアメリカと戦争などできなくなってしまう。

なぜなら、この論文の書かれた5年後には原子爆弾ができてしまうからである。

幸運が重なりアメリカとともに日本も原爆を持てたとしたも、なおさら最終戦争という熱戦(hot war = 実際に撃ち合う戦争)を起こすことなどできなくなる。
起こせば、その強大な破壊力ゆえに、両者がとも倒れとなってしまうからである。核の抑止力がはたらき世界最終戦争などできなくなってしまうのだ。最終兵器の出現により世界は戦争ができなくなると、石原莞爾は予言したが、20年を待たず、わずか5年で実現してしまったのだ。

現実の歴史をみれば、原爆が出来てしまった結果、世界は冷戦(Cold War)の時代に突入し、陰にこもった、醜怪な戦の場となってしまった。米ソの冷戦が物語る通り、その後のベトナム戦争に代表されるような、大国のエゴに振り回される代理戦争がアジアの国々で行われるようになった。

石原莞爾のいうとおりに満州国の運営が順調にいき、日本が生き残っていたら、おそらく、世界は米ソ日の三つ巴の勢力が陰惨にぶつかり合い、その間で無辜の人々が苦しむことになるだろう。

また、もし、この時、もし日本の原爆の開発が、数年アメリカより遅れることになれば、日本は理不尽な「ハルノート」を突きつけられたように、挑発された戦争に巻き込まれ、日本が負けることは必至となる。
《『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』とは、極東国際軍事裁判でインド代表判事、パール博士の言葉である。

いずれにせよ、20年後ということを想定したのならば、最終戦争を起こせない。したがって、その目的とする大東亜の解放は行われず、西洋諸国の有色人種への植民地支配は続くこととなり、アジアの解放など絵空事に終わってしまうだろう。

では、対米戦争は必要なかったのか。否であると私は思う。白人、西洋勢力中、最大の軍事力を持ち、最強の存在のアメリカと戦う必要はあったと思う。このことは歴史の必然ではなかったかと思っている。不可抗力である。ハンチントンやトインビーは認めないかもしれ無いが、これは文明の衝突なのだ。

アメリカと戦わず、挑発にものらなければ、満州国は栄え、大東亜共栄圏が実現し、アメリカに匹敵する経済圏が生まれただろうか?。
そのきわめて薄い可能性はあるかもしれない。だが、中国、朝鮮、他アジア諸国の日本への反発も相当なものになるのではないか。アジアの独立よりも、日本への反日の方が大きくなり、それを米ソが後押し、それを抑えるべく民衆の弾圧繰り返しことになり、本来の目的を見失うことになりはしないか。

あるいは満州を放棄し日本のみが白人勢力とともにアジアの一角で栄えることはできるかもしれない。だが、それではアジアやアフリカは解放はどうなる?。その解放は50年、ことによると100年は待たなければならないのではないか。

『十九世紀の西欧においては、白人民族同士の戦乱状態が常習的に行われており・・東方を望めば、瓦解した諸帝国が、トルコから中国にいたるまでアジアの全大陸にその残骸をならべていて・・いたるところの原住民らは、羊のごとく従順にその毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。敢えて反抗しようとはしなかったのである。日本人だけが全く違った反応を示した。しかし、日本人はきわめて珍しい除外例であり、かえって原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ(トインビー)』

この状態を日本は座視できるかどうか?。多くの日本人には到底耐えられなかったのではないかと思う。隣で暴行を受けているものを見て、黙って見過ごせないのと同じだから。もっとも、今日では、暴力はいけないから、手を出してはいけないという人もいるようだが?。最近の日本人は変わってしまったから当時の状態がわからなくなってしまっているようだ。

林房雄の「大東亜戦争肯定論」「緑の日本列島」読むと、この戦いを100年のスパンでみなければならないと言っている。つまり昭和16年の12月8日から20年8月15日の3年8ヶ月の戦いではなく、1853年の黒船の来航から始まり、1945年で終わる、およそ100年の戦争と見るべきだというのである。

徳川260年余の太平の眠りが破られた時、目を世界に転ずれば、インド、中国、ベトナム、カンボジア、朝鮮など、タイを除くアジア諸国が、さらにはアフリカの国々が西洋列強の植民地となっていた。

驚愕すると同時に、その力の源泉を産業革命に見出し、自らも科学技術を振興することにより、その力を得て、国内の革命を成就し、さらにはその勢いをもって、アジア、アフリカでの白禍を防ぐ、これが日本人の魂の底に秘められた思いとなった。

幕末当時の薩摩藩主、名君と言われた島津成彬は「大陸出撃策」という考えを抱いていたという。

『出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。1日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えしめ、日本と連合するときは、英仏といえども恐にるたりない。然るに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を視ること属国の如く、日本より連合を申し出ても耳をかたむけるどころではない。故に、我より出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐを上策となす』

中国に「共に手を携えて西洋列強の侵略を防ごう」と言っても、中国は驕り高ぶっていて、日本のいうことなぞ聞く耳を持たない。仕方がないので、日本から出向いて彼の国の鼻っ柱をへし折り、政治改革のお手伝いをして、その後、改革され刷新された中国と手を携えて、西洋列強に対峙しよう言うことだ。

同じような考えは、藤田東湖、橋本左内などにも見られる。国内の改革が成就すれば、次の同胞アジアの解放と考えるのは自然の成り行きだったろう。総じて言えることはアジアを統一し持って西洋列強に対峙するというものだ。

明治維新は国内の革命を実現することだけではなかったのである。当時の代表的な知識人の考え方だけではない。一般庶民にもその考え方は浸透していた。おそらく日本人のコア・パソナリティーと言うべきものになっていたと林房雄は言っている。私もそう思う。だからこそ、日清、日露、大東亜解放の戦いを、何の矛盾もなく多くの国民が受け入れてのだ。つまり、大東亜戦争はおよそ100年前に計画されて、世代を経て受け継がれて行くうちに潜在化され、いつの間にか無意識的に我々には戦うことが自明の理となっていたのだ。

大東亜戦争の目的は「侵略」だったとわれわれは教わっている。しかし、世界を揺るがした大戦の目的が「侵略するから、この戦いに参加せよ」などという、あほうなスローガンだったと言うのか?。こんなスローガン信じてわれわれの親父たちが戦に馳せ参じたのか。こんなスローガンでは人は動くはずがない。しかし、おかしなことに日本の戦争目的は今日まで「侵略」ということに馴れて、多くの国民が疑っていない。おかしいだろう。

大東亜戦争は西洋列強と、その優たるアメリカとの戦いで、その大戦初期に日本が善戦し、アジア、アフリカの有色人の同胞に自信と希望を与えたということは紛れもない歴史の事実である。石原莞爾の予言通り、白窩を駆逐し、有色人種を解放するためには、日本と欧米列強は戦う必要があった。それが歴史の必然だったと私は思っている。

しかし、その時は、先にあげた理由で石原莞爾のいう20年後(昭和35年ごろ)では無理である。では、その時はいつなら良かったか?。

開戦の時は、いつならば良かったか?

私は昭和16年12月8日が最良の時だったと思うのである。このころを境に、我が国の航空機は機体設計(エンジンなどは遅れていた)の分野で西洋を一頭地凌駕しつつあった。

近代戦は制空権を制したものが勝利すると言われているが、昭和15年は零戦が中国大陸で実戦投入され活躍しだした時期である。初戦は9月12日で13機の零戦で、中国空軍の戦闘機33機と交戦し27機を撃墜した。零戦は一機も失われなかった。

以来、『初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機のみで、空戦による被撃墜機は無いまま、 太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった。

太平洋戦争緒戦
 太平洋戦争緒戦において零戦は、空戦性能において卓越し、グラマンF4Fワイルドキャットなどに対し、1942年8月連合国によるガダルカナル侵攻まで連戦連勝で優勢だった。また、零戦は2200キロの航続距離を持っていたが、当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し帰ってくることは夢物語であった。

 零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力のほとんどを撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって連合軍将兵の心の中に零戦は「無敵」という神話をうえつけた。

 当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは零戦より、速度・上昇力・旋回性能のすべてにおいて劣っていた。

 海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機すなわち83%を占めた。太平洋戦争のはじめの一カ月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65%であった。日本軍の全戦略はこの飛行機の成功にかかっていた。(ウイキペディアー零式艦上戦闘機)』

しかし、こうした初戦の戦果も、日本への侮りと、情報不足からくるもので、軽量化のため防弾装備がない弱点を知られてしまえば、徐々に挽回され、日本に比して10倍の工業力を持つと追われるアメリカが、対戦中期より零戦に倍する2,000馬力級の新鋭機を陸続と開発してくるころには、優位性は完全に失われてしまう。

もし、開戦が昭和17年あるいは18年に伸びたとすると、秘匿された我が国の航空機の情報も明らかになり、対抗策が取られ、真珠湾の勝利、マレー沖の浮沈艦と言われたイギリス東洋艦隊プリンス・オブ・ウェールズ、同レパルスの撃沈などはなかったことになるだろう。

つまり、アメリカと最後の決戦戦争(最終戦争)を行うには、皮肉なことに昭和16年が、彼我の工業力の差が10倍という、この時期がもっとも適していたということになる。

12月8日の開戦について

12月8日については、フジテレビの番組『鶴瓶と南原、日本のよふけ』(確か2002年ごろ)で、瀬島龍三との興味深い話があった紹介しておく。

記憶をたどれば、鶴瓶と南原が瀬島龍三に「あの戦争でアメリカに勝つと思いましたか?」と問いかける。
瀬島は「鶴瓶さん南原さん、戦というものは、今も織田信長のような昔も変わりません。城を取って勝つと言えるのです。アメリカの城はどこですか?」と反対に問いかける。
鶴瓶、南原「ワシントンですか?」
瀬島「そうです。ワシントンを落とせると思いますか?」
鶴瓶、南原「無理でしょう」
瀬島「そうです無理です。支那でさえ攻めあぐんでいるのですから、ワシントンを落とすなどは到底不可能です。日本の工業力の10倍のアメリカを相手にできるなどとは、あの当時の軍人のどんな夢想家も思っていませんでした。
鶴瓶、南原「ではなんで戦争したのですか?」
と悲鳴のような問いかけが続く。

それに瀬島が答える。この後話を要約すると、ABCD包囲網による禁油政策により、日本に一滴の石油も入らなくなった。昭和16年12月8日は備蓄している石油を食いつぶす日であること。石油がなければ、軍艦も飛行機も飛ばせず、兵の訓練など出来ず、軍艦や飛行機や戦車は有っても、中国との戦争に座して負けてしまう。止むに止まれず、座して死を待つより、南方の石油資源確保のために、自衛の戦争をしなければならなかった。といっていた。

こうした背景で戦争が始まってしまったが、石原莞爾は昭和16年に日米開戦は時期尚早であると唱え、官職を辞して野に下り、米国と戦争をする愚を訴えて東条内閣を糾弾した。この運動に我が亀井先生も参加していたが、かく考えてくると、皮肉なことに、日米最終戦争の最良の開始日は20年後ではなく、論文の出された翌年だったのである。




防空識別圏
2013/12/02(Mon)

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中国が、寝耳に水の防空識別圏を、魚釣島を含む空域に設定したそうです。この空域を米軍のB52よりも早く、わが自衛隊のF15戦闘機が飛行したようです。

慣れ親しんだとはいえ、昨日までとは違った、未知の領域となったところを飛ぶのです。中国軍機のスクランブルにあい、撃墜の可能性もありました。その中を単機で飛ぶのですから、死ぬことも覚悟したのではないでしょうか。その剛胆さに驚きました。

大和魂健在なり。今の若者は素晴らしい。我々、団塊の世代より頼もしく見えます。

写真は魚釣島上空を飛ぶ零戦(X-Plane)です。





所有と存在
2013/08/30(Fri)

《教授》:何やら考えているな。ゴミか病気のことか?

《ニック》:どっちも。

《教授》:哲学者のフロムが予測していたな。所有に取り付かれた社会を。人間の傾向は2つあるといった。所有と存在だ。
所有の傾向を持つ人間は、物や財産、人まで手に入れようとするが、存在の傾向を持つ者は、経験を重視する。他社との交流や、分ち合いに意味を見いだす。

《ニック》:そっちが正しいかな。

《教授》今のような商業主義が支配する社会は破滅するとフロムは予言している。所有を指向すれば不満と空虚へと行きつく。1960年代を考えてみろ。トランクルームなんてものはなかった。今、2億平方メートルに近いスペースがある。もっともな話だ。

《ニック》社会のせいということですか?

《教授》社会のせいということにすれば、マルタ(ゴミ屋敷の住人の名前)のような例は今後も有るということだ。意味を与えなくても良い、無視する必要もない。所有は楽しみの一つでもある。生きる邪魔にならなければ良い。

CSI 科学捜査班 シーズン11 #5 ゴミ屋敷の法則(House of Hoarders)の吹替え版の台詞より





民族の性格は一夜にして、変わる?、変わらない?
2013/08/29(Thu)

中国や韓国の主張は、戦前の日本人は南京虐殺、従軍慰安婦など鬼畜にも劣る行いを行った、まことに鼻持ちならない人種、民族であるらしい。

しかし、今の日本人は、311の東北大震災のおり、世界を驚嘆させたごとく、優しく、思いやりのある民族、というのが世界の人の大方の見方のようである。

オリバー・ストーン監督が、「私が出会う日本人はみんな優しいのに、なぜ戦時中は朝鮮人や中国人に残酷になれたのか」と言ったというから、私は、それほど見当違いなことを言っていないと思う。

ということは、日本人は、戦後のある一時期から、鬼畜から、心優しいメンタリティーに大変身したということのようだ。一夜にして、日本人の性格が変わってしまったのだ。しかし、民族の性格が、そんなに簡単に変わってしまうものなのか?。

そんなことはあるまい。三つ子の魂百まで、雀百まで踊り忘れず、個人でも、幼い頃の性格は、年をとっても変わらず、幼い時に身につけた習慣や若い時に覚えた道楽は、いくつになっても直らない、といわれるのだから、ましてや民族の性格が、そう簡単にコロコロ変わるはずはあるまい。

従って、今、心優しい日本人は、戦前も優しく、思いやりがあったに違いない。

また、つい最近、事故を起こした新幹線を、埋めて証拠を隠蔽しようとしたり、天安門で大虐殺をおこなった中国人も、サッカーW杯10大誤審(FIFA公認)に、2002年の韓国の試合が5個もランクインし、八百長を行っても勝とうとするメンタリティーをもち、アメリカ精神科協会が認めた、朝鮮民族特有の文化依存症候群の一つとして精神障害の診断に登録している火病(怒りの抑制を繰り返すことでストレス性障害を起こす精神疾患)をもつ韓国人も、同じく戦前も、このような民族だったに違いない。

とすると、このような人達の主張する南京虐殺や慰安婦問題に信憑性はあるのか。

なにより、中国人も韓国人も自国の政府の発表を、ハイそうですと、鵜呑みにはしまい。だから暴動が絶えないのだろう。では、なぜ、中国や韓国の政府が言っている日本人への評価のみ、ハイその通りですと信じてしまうのか、まったく分からないよ。

やっぱりおかしいのは中国人や韓国人、あんた達の言うことの方でしょう。





零戦の真実
2013/08/12(Mon)

宮崎アニメ、風立ちぬを見た。二点ほど気になった。一点はX-Plane BBS に書いた。

http://8131.teacup.com/xplanejapan/bbs/6551

もう一点は思想的な問題になるので、私のブログに書くことにした。
その一点とは、零戦の本質に触れていない、ということだ。

零戦をテーマにしようとしたが、戦争オタクと一線を画すために、芸術家としての堀越二郎に焦点を当てたようだが、それでは零戦の本質に迫れないと思うのである。

零戦は、アジアから白人支配を一掃した象徴でもあるのだ。以下は台湾の評論家、黄文雄氏の言葉である。
「じっさい、昭和16年以降、日本軍の一撃によって、東南アジア全域で、数百年にわたる西欧の植民地支配は崩壊し、日本軍主導による「東亜新秩序」が樹立されたのは歴史の事実である。」

この一撃を可能にしたのが零戦や隼なのだ。もちろん、航空機だけで可能だったわけではないが、いち早く西洋文明の力の根源を科学技術であると見抜き、それを消化し同化するために明治維新以来、心血を注いだ成果は、現代でいえば航空宇宙産業ような、当時の複合技術の頂点の航空産業で零戦や隼として結実したのだ。

昭和16年の大東亜戦争開戦の200年前、ユーラシア大陸の西の外れにあるイギリスから起こった産業革命、西洋の力の根源を、その東の外れにある日本が70年で充分とはいえないまでも、何とか追いつき手に入れた象徴が零戦や隼なのだ。アジアから、西欧の植民地支配を崩壊させた技術の象徴が零戦や隼なのだ。

また、大戦初期の華々しい活躍のあとで、1000馬力のエンジンで、並みいる列強の2000馬力級の戦闘機と苦しい戦いを続け、最後は特攻機として多用されたのが零戦や隼だ。それはさながら日本の姿そのものなのだ。これを語らずしては零戦の真の姿は語れないはずだ。

これを語ることは戦争オタクとなるのか。いや、宮崎駿氏は歴史の真実から目を背けている。




戦争目的の裏と表
2013/07/17(Wed)

物事には裏と表がある。
戦争にも裏と表がある。
第二次大戦で、日本の戦争目的は「侵略」で、アメリカは目的は「民主主義を守る」為と教わった。
しかし「侵略」をスローガンにして兵を集められるだろうか。侵略が目的ではなかったとは言わない。しかし、それは裏の目的だろう。
そうすると、まことにおかしな議論が、この終戦後67年間続けられてきたことになる。

日本 裏「侵略」
米国 表「民主主義を守る」

つまり、日本の「裏」の目的とアメリカの「表」の目的が俎上に上り議論されているのだ。どちらが正しいのかと問われれば、当然「表=アメリカ」ということになるだろう。
では、日本の表の目的とは何だったのか。多くの人に聞いてみたが大半は??だ。これは大東亜(アジア)の解放である。だから大東亜戦争といった。
では、アメリカの裏の目的とは?。当然、侵略だろう。
整理してみる。

    表の目的     裏の目的
日本  大東亜の解放   侵略
米国  民主主義を守る  侵略

表は表で、裏は裏で議論すべきだ。表と裏が議論したら、負けるのは裏だ。従って、議論すべきは、当時、白人から侵略され植民地化していたアジア、アフリカを解放するということが正しいのか、白人の民主主義を守るということが正しかったのか、ということだろう。

また、裏で言えば、日本の侵略=植民地政策とアメリカ(をはじめとする白人たち)の侵略=植民地政策のどちらが、アジア、アフリカの為になったかと言うことだろう。
ついでに言えば、白人たちの植民地政策は現地から富を略奪した。インドにイギリスが何をしたかを思えば良い。豊かであったインドはその為に疲弊した。
しかし、日本の植民地政策は、現地のインフラ整備の為に日本の金が使われた。
ともに勢力を拡大する為とはいえ、その実体はまったく違う。





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