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jingyu blog
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不思議な旅
2021/01/26(Tue)
昨年(2020)の5月ごろから、奈良へ行かなければ、と言う思いが次第に強くなってきた。そんな時に「先生、民泊を始めたから奈良に来ない」と、かって患者さんだった方から連絡がきた。その方は奈良の旧家を継ぐことになり、その旧家を改造して民泊の施設を作ったのだという。「行く行く」と二つ返事で答えてしまった。
なぜそんなに奈良が気になるのかと言うと、およそ45年前から、8回ほど奈良の史跡を歩いていたが、その時、3カ所で不思議な体験をしたからである。
初めは昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山で、2回目は昭和51年(1976)3月の吉野山、如意輪寺にある後醍醐天皇の御陵で、3回目は昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社の奥にある藤原鎌足公の御陵で。
1回目の鳥見山の体験は後で述べるとして、2回目の不思議体験は二泊三日の行程で、その初日、私は先にのブログで書いた天武天皇の御歌の「耳我の峰」を探して、明日香川を遡り、栢森(かやのもり)、 芋峠、吉野神宮に至る、およそ15、6キロの道を歩いていた。
先のブログで書いた耳我の峰は、天武天皇が皇位を一度は断念し、出家し、吉野に下る際に通った山路にある峰とされていて、そのルートは、三本あると推定されている。その一本を、国土地理院の2万5千分1の地図を頼りに歩いていた。
印象深かったのは、当時の明日香川は源流にさかのぼるにつれ、川幅は狭まり、これが万葉に歌われた川かと思うほど、どこにでもありそうな小川にだったが、さやけさは一層増すようだった。午前10時ごろの日差しの中で、栢森(かやのもり)の道は、人っ子一人と通らず、途中の板塀に、明治か大正の時代に作られたかと思えるブリキ製の錆びた仁丹の看板が、板塀に張り付くようにかかっていて、まるで街全体が時を止めて眠っているように思えた。
しかし、そこを過ぎ、吉野への山道に入ると、その半分ぐらい行程のところで、ダンプカーが行き交い、新しい道路を造っていた。大いに興が削がれた。おかげで、耳我の峰と思える形の峰を見ることはできなかった。
造成仕掛りの道を通って吉野神宮にお参りして、この日は吉野山の旅館に一泊し、二日目は吉野水分(みくまり)神社、金峰山寺を観光し、如意輪寺を尋ねた。
そこで、ふと、後醍醐天皇の御陵への案内板を見つけたので、そちらに歩を進め、御陵の前に立った時である、その日は、3月の、温かさを増してくる春の日差しが心地よく、空はよく晴れていたのだが、それまで、静まり返っていた林が轟々と音を立てて騒いだのである。今まで晴れいた空は雪空に変わり粉雪が降ってきた。
天候のあまりに変わりようと、山鳴りかと思うような木々のざわめきに驚くとともに、畏敬の念に打たれて、おもわず合掌してしまった。数分が過ぎると、木々のざわめきは消えて、青空が戻ってきた。これが奈良の旅で出会った不思議体験の2度目である。
吉野駅より近鉄に乗り帰路に着いたが、電車が駅を離れる時、そばにいた人が、後醍醐天皇の御陵のあるあたりを指して、あすこだけ雪雲がある、とい言っていた。つられて、私もその方を見ると、御陵を包むように灰色の雪雲が覆っていた。誰かが「なごり雪やねー」と言った言葉が妙に耳に残った。
その言葉で、私に名残を惜しんでくれたのか、とも考えたが、まさか、そんなことはなかろう。でも、不思議な感じは、より強くなった。何のご縁かはわからなかったが「もう一度、お酒持ってお参りに来ます」と御陵に向かって思った。
同じような体験はの3度目は、昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社にお参りした時に起こった。神社の横手にある案内板で、御破裂山(ごはれつやま)山頂に藤原鎌足公の御陵があるとわかったので、そちらに向かった。
2月22日、前日は大雪が降ったので、談山神社は社殿も、有名な十三重の塔もすべては雪景色の中にあった。しかし、この日は、よく晴れて、白い雪と青い空のコントラスト目に焼きつくようだった。歩をすすめる急勾配の山道も雪の中である。よほどの物好きなければ、こんなルートは選ばないだろう。その白い雪の中に点々と私の足跡だけが残っていた。
2、30分歩いただろうか。10メートルくらい先に 御陵の祭壇が見えてきた。その時、突然、猛吹雪に見舞われた。2、3メートル先しか見えない。御陵の祭壇は完全に見えなくなった。「一転にわかに、かき曇り」という言葉があるが、まさにそれである。周りの樹木は靡き、唸っているように聞こえた。
立ち止まり、合掌すること数分、起きた時と同じように突然吹雪は止んだ。青空は戻り、穏やかな日差しの中で、藤原鎌足公の御陵に参拝できた。次に来る時は、ここにもお酒を持ってこなければと考えていた。
以上は、私に身に、43、4年前に起こったことだが、一回目の不思議体験は、45年前の、当時27歳の私と、現在の2020年10月26日の72歳の私に起こったことなので、併記して書いてみた。
昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山を訪れた。ここを知ったのは上智大学の渡部昇一先生の紀行文からで、鳥見山の山頂に神武天皇が大和を平定したのち、初めて霊畤(まつりにわ)を行ったところである、と書かれていた。
霊畤については、等弥神社のパンフレットには次の文がある。『霊畤は、国で採れた新穀及び産物を供えられ、天皇御自ら皇祖天津神々を祭られ、大和平定と建国の大孝(たいこう)を申べ給うた大嘗会(だいじょうえ=大嘗祭のこと)の初の舞台です。いわば我が国建国の聖地と言えるでしょう。』
大嘗祭とは、新天皇が即位して最初に行われる新嘗祭ということだから、宮中の最も尊く重要な儀式の原点がこの鳥見山なのだ。しかし、前後の教育の影響か、タクシーの運転手も場所を知らなかったと渡部昇一先生は書かれていて、いわば、忘れ去れようとしている所のようなので、それでは、是非とも行かなければ、と思って訪れることにしたのだった。
私は地図を持って、等弥神社の前に立っていた。その時、神社を守る二頭の狛犬の像が妙に気になったのだけれど、気のせいかと思い、山の登り口を探した。地図には一本の道しか載っていなかった。しかし、等弥神社の拝殿の左右にそれぞれ道があって、どちらが本道か迷った。できれば道に迷いたくなかった。持病である膝が痛み出していたから。
拝殿の左の道は平坦で、右の道はいくらか登りの勾配があったので、山に登るのだから、多分こっちだろうと思って、そちらを選んだ。しかし、しばらく登りが続いていたと思ったら、下るようになってしまった。もう少し歩けば登りになるかと思い、歩き続けたが、川に出てしまった。川の両側は自然にできた勾配で、コンクリートなどで護岸工事されいず、人の手の入らない自然そのままの川のようだった。
川が流れていれば低地なので、ようやく道を間違えたことに気づき、引き返すことにした。膝の痛みは少しづつ増してきた。やっとの思いで、元の場所に戻ることができた。30分くらい時間を無駄にしたろうか?。
さて、こっちが本道と思われる、左の道を歩こうとすると、二匹の犬に行き手を遮られた。猛然と啼いている。そしてデカい。72年の生涯を通じても、あんな大きな犬に出会ったことはない。子牛をわずかに小さくした感じである。
こんなのに襲われたら命は一溜まりもなく失われるだろう。困った。どうするか?、登山を断念して帰るか、とも思ったが、ここまで来て引き返すのも癪である。写真を撮るために三脚を持っていたので、襲われたら、これで応戦しようと考えたが、尋常ではない大きさと、二頭いることを考えたら、十中八九、死ぬな、と思った。そして、エエい、死んでも構わん、神武天皇の事績を見るために命を落としても、それは本望と思い、一歩、歩を進めた。すると二匹は一歩後ずさりした。もう一歩進んだ。二匹は後ろを向いて、ワンワンと吠えながら逃げていった。
良かった、とホッとして、歩きだしたが、歩く前方から犬の鳴き声が常にしている。いつ、反転して襲ってくるか?、ビクビクしながら歩を進めていった。すると、道は再び左右に分かれた。犬の鳴き声は右の道から聞こえてくる。膝の痛みを考えると、もう道を間違えたくない。しかし、この時になると、心の中に、怖いという思いと、親しいという、相反する思いがしてきて、もしかしたら犬どもは俺を案内しているのではないか?という気がしてきた。それで、思い切って声のする、右の道を選んだ。
その道を5分ぐらい歩いたか?、急に開けた場所に出た。ちょうど展望台になっていて、そこから、畝傍、耳成、香具山の大和三山が、最高のロケーションで見ることができた。このことは渡部昇一先生も述べていたが、35ミリの広角レンズを使えば、ワン・ファインダーで収めることができる。
前回の奈良の旅で、山辺の道の金谷、海拓榴(つばいち)付近で、大和三山を写真に撮ってみたが、とても一回で収めることができず、三枚のパノラマ写真にして収めなければならなかった。ところが鳥見山展望台?では、きれいに一枚に収まるのである。ここから眺める大和盆地は絶景と言うほかない。
そして、ここで、もう一つ気付いたのが巨大な石碑である。私の背の丈の2倍以上はあろうかと思われる高さで、表面には1センチ5ミリ角ぐらいの小さな漢字が上から下まで、びっしりと刻まれていた。読んではみたが、見たこともない字でほとんど判読できなかった。一応写真に収め、後で読もうと思ったが、写真で見ても分からなかった。(この時の写真は、家内が生前子供の成長記録をまとめようと、集めていた写真の束の中にあるはずだが、その数があり過ぎて、日々の仕事と、その他の整理で、簡単には見つかりそうもない。とりあえず、この文を完成させてから、ゆっくり探し、あれば、ここに載せようと思っている。)
頂上はまだ先なので、そこを後にして、歩きはじめて気づいた。さっきまでしていた犬の鳴き声がしない。どこかへ行ってしまったようだった。ホッとしたのと、寂しいのと妙な気持ちだ。さらに歩いていると、左からの道と合流した。もし犬の声を避けて、左に行ったら、さきの場所とは出会えなかったな、と思った。二匹の犬が導いてくれたようだった。
そして、とうとう頂上と思われる、開けた場所に着いた。霊畤の文字の刻まれた、およそ膝くらいの三角形の石碑を確認するとほぼ同時に、林が騒ぎ出した。先にも書いたが、一陣の風とともに木々が揺れて、騒ぐのである。すでに書いてきた体験は、この後の不思議体験である。この時が、初めての体験なので、恐れ多くなり、来てはいけないところに来てしまったと思った。跪いて合掌していた。
以上が45年前に体験したことだが、その三箇所で、もう一度来ますと、心に誓ったことなので、いつか奈良を訪れ、供物と酒を捧げようと決めていたが、難病を病む家内の介護があって、訪れることは叶わなかった。その家内も2年前に亡くなり、子供も独立し、独居老人のお仲間になれたが、コロナ騒動で、訪れるチャンスはなかなか巡ってこなかった。
そんな折の、誘いなので、昨年の10月25、6、7日の二泊三日の予定を組んだ。行くべき場所は、すでに述べた三箇所である。民泊の宿は大和八木にある。不思議体験三箇所のど真ん中にあると言って良い場所だった。まるで仕組まれていたようだった。
供物は、新潟のコシヒカリの新米、スルメ、塩、酒は二合瓶で八海山を用意した。1日目は吉野の後醍醐天皇の御陵、2日目の午前中に多武峰の藤原鎌足公の御陵を訪れ、用意したものを献上し祈りを捧げた。また、不思議な現象は起こるかなと、わずかな期待があったが、二つの場所では何事もなかった。
26日の午後、鳥見山の等弥神社を訪れた。昔は見捨てられたような神社だったが、今は参拝客も多いのか、登山の為の無料貸し出しの六角棒や、土産物なども売っていて、地域の人々の参加する催しもあり、賑わっているようなので安心した。
神社の社殿に立って、右を見ると、かって迷い込んだ道があるはずなのだが無かった。川はあるが、両側をしっかりコンクリートで固められて、まっすぐに流れていた。45年の歳月が感じられた。さて、右の道を歩こうとすると、ここにも変化はあった。平坦な道はなくなって、赤い鳥居があり、参道は階段を登るようになっていた。当時、このような作りになっていれば、迷うことなく、こっちを選んだと思う。
その階段を登り、山道を歩いているのだが、二股に分かれた道がない。展望台はどこに行ったのだろう?、探しながら歩いていると、50センチほどの高さの登る小道を見つけたので、そこを登ると、かっては展望台になっていたであろう場所に出た。しかし、杉の木が視界を覆い、大和三山を見ることはできなくなっていた。石碑はあったが、『見わたせば 大和国原ひとめにて 鳥見のゆ庭の 跡ぞしるけき』と書かれていた。
歌の文面から、ここが、かって大和三山をワンショットで撮った場所だと知れるが、和歌で、しかも現代の人が歌った歌である。ひらがながあるから、背丈の2倍ある漢字のビッシリと彫られた石碑ではない。では、あの石碑はどこに? この旅の大きな目的は、その石碑に書かれた漢文を読んで見ることだった。読めなくても、せめて何を表そうとしたのかを知りたかったのだが、その石碑がないのである。
ネットで探していた時に、ようとして見つからないので、現地を訪れば分かると思っていたが、これはどうしたことだ?
まだ先に歩いて行けば、あるのかもしれないと思い、歩き続けていたら、山頂に着いてしまった。霊時の石碑がそこにあった。間違いなさそうだが、記憶と全く違う。あの時、霊時と書かれた石碑は、こんな長い形では無かった。もっと底辺のひろい、堂々とした三角形だった気がする。霊時の文字も、こちらは草書のようだが、私の見たのは隷書のような文字で、くづしは無かったように思う。
その石碑が置かれている敷地の広さも違う。かった見た時は、もっと広く、100人ぐらい優に並べる広さがあった。ここでは10人ぐらいが関の山だろう。供物を捧げる儀式には神武天皇一人で行われたのだろうか?様々な文官、武官を従えての祭りを行うには、狭いような気がする。もっとも、新嘗祭は天皇陛下お一人でなされるそうだから、狭くても良いのかもしれないが、いずれにせよ、かって私が見たものとは、全然違っているのだ。
これは、いったいどうしたことだ?。狐につままれた? わけがわからなくなったが、とりあえず、持ってきた供物とお酒を供え、祈りを捧げた。それを終えて、山道を下り帰路に着いたが、下り終わるあたりで、下からおばあさんが登ってきた。挨拶したら、声をかけられたので、少し話をした。
なんでも、83歳になって、足腰が衰えてきたので、少しずつ上り下りして鍛えているそうである。「小学生の時はこの山の隅々までを駆けずり回って遊んでいたのに、今は、やっとの思いでここまで来るのですよ」。というので質問してみた。83歳なら11歳私より年上だから、私が27歳の時にはおばあさんは38歳。
当時を十分知っていると思って、「私の背丈の2倍ある石碑はありませんか?」と聞いてみた。キョトンとして答えられた答えが「そんなのありません」ということだった。「では二匹の大きな犬は?」いくらなんでもあんな大きな犬が野犬のように山を駆けずり回っていれば記憶しているはづである。しかし「そんな犬はいません」という答え。
混乱してきた。社務所をおとづれ宮司さんに同じ質問をしてみた。私は50年前からここにいるが、見たことも聞いたこともないとのことだった。では、私は45年前、白昼夢を見ていたことになる。
これが昨年私が体験した不思議な旅の物語である。私の不思議な旅は、これで終わったが、これからはトランプ大統領に連れて行ってもらえそうである。期待にワクワクしている。
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ホワイトハウス捕虜収容所出現?
2021/01/20(Wed)
ふと思った。 今、ホワイトハウス周辺は鉄条網をつけたフェンスで囲まれているそうである。トランプ大統領を支持する為に集まった人が暴動を起こした場合、大統領就任式に集まった人々を守る為らしい。 また、そうした暴徒からバイデン大統領候補たちを守るため2万5000人以上の兵士が集まっていると言う事である。 幾ら何でも、その目的の為の手段としては大袈裟過ぎないか? ふと、映画の大脱走を思い出した。スティーブマックイーンがオートバイで飛び越えようとした捕虜収容所のフェンスだ。 そこで気がついた 今回の不正選挙に絡んだ人々はあまりにも多く、おそらく万を超えるだろう。グアンタナモの刑務所が、そんな彼等のすごす場所となるようだが、彼らが一斉に捕らえられた場合、輸送を考えると一度には無理だろう。そこで、仮説の収容所が必要になる。米軍はホワイトハウスに、その収容所をつくったのではなかろうか。ことによると、軍事裁判はここで行われるかもしれない?。そしてそれは、テレビ中継される。なんという皮肉。でも、史上最大の不正選挙を行おうとした者たちにはふさわしいのかもしれない。不思議な旅の第一歩は前代未聞の収容所から始まるのかも知れない。
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万葉集の歌2題とトランプ大統領
2021/01/14(Thu)
天武天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)
み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如(ごと) 隈(くま)もおちず 念(おも)ひつつぞ来る その山道を
この歌は天武天皇が壬申の乱に勝利した後、当時を振り返って詠われた歌である。大意は次の如く。
み吉野の耳我の嶺に、やむ時もなく雪が降りついでいる。間断なく雨が降りつづいている。その雪がやむ時もなく降りつづいているように、その雨が絶え間もなく降りつづいているように、山道のすべての曲がり角ごとで、思い悩みながら歩いてきた、その山道を。
この念い悩んだこととは、どんなことだったろう。私は、兄の天智天皇が蘇我入鹿を殺害し、大化の改新をしてまで実現したかった理想が、崩されて行く現状を見ながら、それに目をつぶり生きて行くか、またはその理想を実現するために自分が先頭に立つべきかで、悩んでいたのではないかと思う。
理想実現のために立ち上がれば、兄、天智天皇の御子であり、自分にとっては甥っ子である弘文天皇(第39代? 672-673)に弓を引くことになる。しかし、立ち上がらなければ、皇統はいずれ息を吹き返す地方の豪族たちの私利私欲によって絶えてしまうかもしれない。「シラス」の理想は潰え「ウシハク」に取って代わられる。「どうすべきか?」と悩まれた時の歌ではないかと思っている。
大海人皇子(天武天皇)は悩んだ末に、壬申の乱を起こし、終には勝利し、次々と政策を実行して行く。
古事記と日本書紀の作製指示、神道の形態の確立、伊勢神宮の式年造営を定め、仏教を国家によって保護、律令国家を建設(ハード面 藤原京、ソフト面 飛鳥浄御原令→後に大宝律令として完成)など、まさに日本という国家の原形を作り上げたと言って良い。特に、古事記の編纂は特筆に値する。
古事(ふること)の ふみおらよめば いにしえの てぶりこととひ 聞見るごとし
本居宣長が古事記伝を、35年かけて、心血を注いで研究し完成させた時に、詠んだ歌である。その古事記を読んで行けば、上古の人々の、生活や、考え方、物の見方、語り合う事ごとが、今のわれわれが眼前で見て聞いているようにわかる、と言っているのである。
今日、縄文時代の遺跡が数々発掘され、従来の概念を覆して、新しい視点を与えてくれてはいるが、しかし、それらは、すべて遺物から推測される事柄だけである。縄文人の息吹、その生き生きした姿を知ることはできない。その姿を知るには古事記、日本書紀、万葉集に頼るしかないのである。付け加えれば、成立の分かっていない万葉集も天武天皇の発案であっても、おかしくないと思っている。
口伝で伝えられている古代の人々の姿を、後世にありありと正しく残すには、それらが、時代を経て風化して行く中で、文字として残すしかなかった。これが天武天皇の修史の着想となったのである。
小林秀雄は著書「本居宣長「の中で『・・この意識が天武天皇の修史の着想の中核をなすものであった。当時の知識人の先端を行くと言つてもいい、この先鋭な国語意識が、世上に行はれ、俗耳にも親しい、古くからの言伝へと出会ひ、これと共鳴するといふ事がなかつたなたならば、「古事記」の撰録は行なはれはしなかつた。そして、このやうな事件は、其の後、もう二度と起こりはしなかつたのである。』と言っている。
話を歌に戻す。天武天皇の悩みの根源は、すでに述べた「シラス」の原理が「ウシハク」に覆われようとしているのを座視すべきか否か、なのである。そう見てくると、私には、この歌が、今の我々が目撃している「トランプ大統領」の悩み、と直結してくるのだ。
始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と古事記に書かれた言葉がある。「天下を初めて治めた天皇」という意味であるが、この称号は、初代の神武天皇と、第10代の崇神天皇に与えられている。余談だが、これを持って神武天皇と崇神天皇が同一人物であるとの説が左翼学者の間で横行しているが世迷言である。「ハツクニシラス」とは、建国の理念を実行した天皇、と解されるべきである。
天照大神(あまてらすおおみかみ)は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)=神武天皇に「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は、汝(いまし)の知(し)らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降(あも)りすべし」と仰せられた。つまり「シラス」を実行して日本を治めよ、という意味だ。「シラス」を実行する事が建国の理念なのだ。
しかし、その「シラス」の統治原理は、第2代、第3代と時を経るごとに曖昧になり、第10代の崇神天皇の頃になると、地方豪族が私利私欲のために反乱を起こし、日本を「ウシハク」して治めようとする動きが出てきた。そこで、崇神天皇は大改革を行い、初代天皇の「シラス」の原理に戻したと記紀は伝えているのである。
人は欲に溺れやすい。最初に崇高な原理で建国された国家も、時を経るごとに、身に垢がつくように、次第に汚れてくる。したがって時々、禊をして、垢を洗い落としリフレッシュして元に戻してやらねばならない。
そして、それは長い歴史の中で何度でも起こる。第10代崇神天皇より数えて第32代の崇峻天皇は蘇我馬子により暗殺されてしまうのである。「シラス」が「ウシハク」に取って代わられる危機が再び起こってきた。この危機の時、聖徳太子が現れ一七条憲法を制定し、三経義疏(法華経、勝鬘経、維摩経の注釈書(義疏・注疏)を表し仏教を広め、人のあるべき道を示すが、蘇我氏の横暴は止まず、「シラス」危うい立場に陥る事になる。日本の歴史上でも、建国の理想の最大の危機と言って良いだろう。
これを止めたのが、大化の改新を起こした天智天皇なのだが、天智天皇亡き後「シラス」原理は曖昧になって、再び「ウシハク」に覆われようとしていた。それを覆し、元の「シラス」原理を打ち立て成功させたのが、弟の天武天皇だ。
そういう見地で見ると壬申の乱も、再び建国の理想に戻す為には必要な戦だった。そして、それを行なった天武天皇にも「ハツクニシラススメラミコト」の称号を与えても良いと思う。もっとも、古事記は推古天皇までで終わっているし、記紀編纂を命じた天皇だから、当然、書かれることは無い。過去の事績を伝えるのに用いる「ハツクニシラススメラミコト」なのだから。とは言え、記紀には書かれる事はなかったにしろ、後の世に生きる我々は、それを肝に銘記すべきだろう。さらに言えば、トランプ大統領もアメリカの失われようとしている建国の理想を戻し、再び実現させた大統領になる筈だから「ハツクニシラス」と呼んでも良いではないか。
舒明天皇の御歌
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝(ね)にけらしも
夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろう、という意味である。
斎藤茂吉は「いねにけらしも」の一句は「まさに古今無上の結句」「万葉集中最高峰の一つ」と評価している。
私が若い頃、影響を受けた山口悌治先生の「万葉の世界と精神」には『この御製(ぎょせい)には、惻々(そくそく)として身に迫ってくるものがある。それはこの御製を支えている名状し難い静けさである。文学的な鑑賞眼などでは、とうていとらえることのできない、その静寂の深さである。………舒明天皇をとり囲んで、ひしひしと迫ってくるのは、物音一つしない無限の静寂である。森々と深まりゆく宵闇である。………この御製全体を、胎盤の如く包んでいるものは、舒明天皇のあの「沈黙」だと思うからである。』と評している。
確かに、歌に不慣れな私にも、尋常ならざる静けさは感じられる。しかし、この時、舒明天皇のおかれていたお立場はどうであったか?。これを解さなければ山口先生が「舒明天皇の「沈黙」と書かれた意味がわからない。もう少し山口先生の解説を読んでみる。
『推古天皇の崩御後における皇位継承の紛争。蘇我蝦夷(そがのえみし)を一方の主軸とする群卿の対立抗争の間に処して「沈黙」を守り通して、密かに聖徳太子の悲願の達成を祈念せられた、あの「沈黙」の意義の深さを想わずにはいられないからである。そしてその「沈黙」の祈りの中から、大化の改新の指導者であり完成者である、天智天皇と天武天皇のご兄弟の皇子を見事に育て上げられたのである。舒明天皇に関する限り、このことはは決してわすれられてはならない。』。先に書いたが、第32代の崇峻天皇は暗殺されている。舒明天皇の周りでは陰惨な権力闘争が起こっていたのである。
皇極天皇ーーーーーーーーーーーーー舒明天皇 (第35代) | (第34代) 斉明天皇 | (第37代) | ―――――|――――- | | 天武天皇 天智天皇 (第40代) (第38代) 673~686 626~672
「ウシハク」を行おうとする者は、目的のためには、暴虐の限りを尽くしも恥じない。「シラス」を目指す者は、常にこの妨害に遭いながら、政(まつりごと)を行うのが世の常のようである。そして「ウシハク」は時間とともに増殖する。だから、時々リセットしてやらなければならない。
それは正に現代だ。アメリカで起きている、2020年11月3日〜2021年1月20日のアメリカ大統領選挙は、その最大級の出来事である。トランプ大統領はほしいままに跋扈するDSと中共の間にあって、気が熟するまで、この「沈黙」を貫かれたのであろう。だが、今、機は熟し時は来た。
アメリカ版、大化の改新だ。それには壬申の乱の様に軍事力が必要になる。グレイト リセットはバイデン側の標語だが、皮肉なことに、その軍事力によってグレイト リセットされるのは彼らになるのだ。もう少し、もう少し。
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米国大統領選挙と禊払いと大禍津日(おほまがつひ)の神
2021/01/04(Mon)
神話とは植物の種のようなものだと思っている。 満開の花を咲かせた桜の巨木も、時間を遡れば元は一粒の種が地に落ちて始まる。種から芽が出て、苗になり、枝葉が歳を重ねるごとに大きくなり、今日の巨木になったのである。それは種の時から約束されたことであり、時間が立つごとに確かなものになっただけだ。したがって今日の巨木も、すでに種の中に約束されていた事といえよう。時間という縁により、種の中に内在していたものが実現しただけなのだ。
こう考えてみると、我々が、今、観て、感じている我が国の歴史も、種の時代があったと考えることも出来そうだ。では歴史の種とは何か。私はそれは神話だと思う。だから、すでに神話の中に、今日起こっていることも約束されている筈なのだ。
種を特殊な電子顕微鏡(走査型光プローブ原子間力顕微鏡)でみれば、遺伝子の配列もみることが出来るようだ。同じように、特殊感覚の持ち主がいて、彼がその感覚を働かせて神話を覗けば、彼には未来に起こる出来事がわかり、古事記の神代の巻は、そうした感覚の持ち主が、それを、今日の我々に伝えるために残してくれたのものなのかも知れない。こう考えてみると、古事記の神代の巻きは予言の書であると言えないか?
このような考えに至った切っ掛けは、数年前から、特に韓国や中国、また我が国でも、可笑しなことをして自ら正体を晒してしまうような行動が随所で目立つようなって来たからである。
例えば、韓国のレーダー照射問題。ただ一言「間違えた、スマン」といえば終わっていたことを、日本の責任に転換した。韓国が長年、歴史の水面下で秘密裏に行ってきたことを自らの手で暴露してしまった。
また、中国が、香港に逃亡犯条例をゴリ押し、認めさせようとした事などもそうだ。 香港は1997年に英国より中国に返還される際、五十年間「一国二制度」として独自の自治を認められていた。それなのに25年そこそこでその約束を反故にしようとした。当然、香港住民の激しい怒りを呼ぶことになり、大いに治安が乱れた。この時は中国のゴリ押しが功を奏し法案は成立してしまった。
しかし、それが翌年の台湾の総統選挙に影響した。当初は中国寄りの韓国瑜氏が有利で、対抗する蔡英文氏を押しのけて台湾総統になるはずの勢いだった。しかし、香港が中国に飲み込まれたことにより、不利であった蔡英文が当選してしまった。習近平が、もう1、2年待てば、台湾は彼のもとに転がり込んだはずなのに。何を早まったのか、水面下に置いてあった野望を表に早く出し過ぎたために、積年の計画が頓挫してしまった。
日本のNHKや民放、あるいは新聞各社に代表されるマスコミの左翼偏向報道もそうだ。そんなにあからさまな偏向をしたら、気付かれてしまうようなことを平気でやっている。だから、ユーチューブで叩かれ、おかしいと感ずる人を増やしてしまっている。と、このようなことが目白押しに現れて、自ら正体を曝け出すような出来事が頻繁に起こっている。
では、神話では、このことをどのように述べているのか? イザナギの命が黄泉の国に行き、その国の穢れたことを悟り、その穢れを禊払いを行って洗い落とすのだが、その時、禍津日(おほまがつひ)の神が生まれてくる。これが現在、我々の周りに起こっている事だと、私は思っている。
この件(くだり)を古事記は次のように述べている。
ここを以(も)ちて伊耶那岐(いざなぎ)の大神(おおかみ)の詔(の)りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾(あ)は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊(みそ)ぎ祓(はら)へたまひき。 ……… ここに詔(の)りたまひしく、「上(かみつ)瀬(せ)は瀬速(せはやし)。下(しもつ)瀬(せ)は瀬弱(せよわ)し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に降(お)り潜(かづき)て滌(すすぎ)たまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(ほまがつひ)の神。この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の、汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。
私見では、以下の表現は地名というよりは、物理学上の「場」の説明だと思っている。
日向(ひむか) → 日に向かう、明るい方を向く 橘(たちばな) → 言葉が立つ、という事。「ば」はコトノハの「は」すなわち言葉が生まれる所。言は事である。だから、物質の発現する場を表している。聖書でも「はじめに言葉あり」と言っている。「は」は始まりの「は」でもある。 小門(おどの) → 小さな、小さな門、すなわち、最小単位の入口 阿波岐原(あはぎはら) → 淡く、微かな、消え入りそうな、場
つまり、時間も空間の発現する以前の場のことで、宇宙が始まったと言われる特異点のことだ。そして、そこで神様が禊をしたら、人類文明が長い歴史を経るうちに身に付けてしまったさまざま悪癖や悪習が洗い落とされた、ということではないのかと思う。そうすると、その垢から、「まがつい」という禍々しい悪さをする神様が生まれてくるようである。
二柱の神様が生まれてくるが、最初に出てきたのが八十禍津日(やそまがつひ) の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神様が生まれる。八十(やそ)とは、「多くの」という意味で、無数のまがまがしい禍が起こるという事のようだ。問題はこの後に出てくる「大禍津日(おほまがつひ)の神」である。八十禍津日(やそまがつひ) の神様は、すでに述べたように、世界中で身晴れするような事件が数々起こっているから、おそらくその事であろう。
大禍津日(おほまがつひ)と、「大」の字がつかわれているからには、大規模な災が起きるという事ではなかろうか?。それは、どんな事だろう。当初は、地震、津波、彗星の落下などの大災害を予想していたのだが、どうも、そうではなさそうだ。
昨年の11月3日に行われた米国大統領選挙が、その災いではないかと思うようになった。この選挙では、滅茶苦茶な不正が行われた。その実態を知りたければ、二つ前に示したYouTubeのアドレスに飛べばわかる。しかし、米国も日本のマスコミはその事実を隠蔽しているので、ほとんどの人はその実態を知らずにいる。さらには、あからさまな事実があるにも関わらず米国の司法も知らん振りであるから、ほとんどの人々はバイデン氏が勝ったと思っているのだ。だが、事実は違う。
元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は「世界を支配するディープステートとの最終戦争が始まった」の中で、世界はトランプ大統領の陣営とウオール街の金融資本を牛耳るディープステートと中国共産党との三つ巴の戦いが始まっている、と言っている。これこそ善と悪との最終戦争であり、アルマゲドンなのだと言うのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=EtgGzJd96tc
どうやら、これは単なる大統領選挙という次元を超えて、歴史の闇に巣食う闇の勢力との戦いのようだ。YouTubeに、トランプ大好き、石川新一郎さんのチャンネル がある。
https://www.youtube.com/watch?v=KTfys8es2f0&t=25s
ここに「ワシントンからのメッセージ」が届いている。これを聞いていると、今まで陰謀論と思っていたことが、どうやら事実のようだ。飛行機事故で行方不明になっていたケネディ・ジュニアは生きていて、トランプ陣営を影からサポートしているらしい。ともかく、この戦いの後、全ての事柄が良い方向に向かうらしい。とは言っても、これを読んでいる方は「馬鹿馬鹿しい」と信じられない事だろう。だが、嘘か誠か、真実は、この二日後にわかる。
言い忘れたが、神話では「禍津日の神」の生まれた後に、『禍(まが)を直さむとして成りませる神』様が生まれ、さらに最後には、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、月讀命(つくよみのみこと)、建速須佐男命(たけはやすさのをのみこと)の三神がお生まれになる。 ……… この時、伊耶那岐命(イザナギノミコト)大(いた)く歡ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三柱の貴子(うづみこ)を得たり」と詔りたまひて、喜んだということである。
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アメリカのTVドラマ
2020/12/14(Mon)
ブラインドスポット シーズン4 #6 裏切りの行方
このドラマは主人公ジェーンの体に彫られた沢山のタトゥーがキモなのですが、それらはこれから起こる数々の事件を予言しています。ただ、それは誰が、何の為に彫ったのか、本人も関係者も分からず、全てがナゾのまま色々な事件が一話完結の形で推移して行きます。
今回は、ジャスティン・トリンプル議員が殺され血文字でGPAと書き残した、ことから始まります。例のごとくジェーンのタトゥーに手掛かりがありました。タトゥーの絵には旗めく星条旗が描かれ、幾つかの星に赤い印が付いています。
色付きの星はジョージア、ペンシルベニア、アラスカ州だ。 旗竿が示す順に並べると頭文字が"GPA" "アメリカ(A)の成長(G)と繁栄(P)を目指す会だろう。 ロビー団体? 最大級だ。連邦選挙と州の法案がらみで多額を献金 ニューヨーク州の下院議員候補たちにも大金を 候補の1人は誰かな? マシュー・ワイツ(FBI長官) FBI長官がKしの隠蔽を図っているようだ。
情報がある ……… この陰謀には中国が絡んでいる ……… 本当かよ ……… 星条旗のタトゥーを出せ 了解 旗めく旗の下のラインが揚子江のラインと同じだ アメリカが中国に浸食されてる うそ ……… 中国とGPAの関係は架空会社で隠されてる GPAは、中国のIT企業を国内に参入させようとしてる 5G技術をめぐる覇権争いだ それが? 5Gは新たな宇宙戦争、むしろ軍拡競争だ 昔は核開発で勝負が決まった 現在の武器は、ネットと携帯 怖いのは核だけに限らない ……… いずれ中国に支配されるぞ すでにGPAが下院を動かしてる ワイツとの関係は? ……… お友達の議員の殺人と国際的で政治的な陰謀 ……… 誤解があるな、私も同じ件を調べてる(FBI長官) だからフランクの家へ? 追跡は気にいらんがGPAの話だ 議員たちを操作し、ジャスティンをKした 法案(1020 846 6414 8221 9871……)への投票を見る限り中国が裏にいる
(場面変わる)
クローディアが”JB”と言ったのよね? 心当たりは? あるぞ、ジェームスボンドにジャックバウアー…ジムブラウン? 冗談はいい ……… “JBが先に"しか聞いてない
*********************************************** この”JB”は、大統領候補のジョー・バイデン?
今、行われている米国大統領選挙の水面下ではこのようなことが起こっているのかも知れません。この脚本は、おそらく2、3年前に書かれていると思いますが、トランプ大統領は、今回の選挙がこうなることを予測し、そのの対策を4年前から行っていたようですので、その対策を練ったブレーンの一人が、この脚本を書いたかも?
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偏向した頭を正すために
2020/12/13(Sun)
12月1日のブログで「米大統領選挙に思う」を書いたら、子供から、何でトランプ大統領が善なの?、と質問が来た。 確かに、日本とアメリカの主要メディアとGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)などのSNSはトランプ側の情報をほとんど出さないようにしている。中立なプラットフォームがないのだ。だから疑問に思うのも当然だ。
そこで、バイデン側の情報ははいくらでもあるので、偏った知見を正すために、トランプ大統領側の情報を発信しているユーチュバーを以下に上げてみる。
最初に疑惑を感じた人の一人 松井健太 松井塾・江戸川・篠崎 改 (学習塾の先生) アメリカ大統領選挙登録有権者数が… https://www.youtube.com/watch?v=wPqWchs5z_Y’ アメリカ大統領選挙 https://www.youtube.com/watch?v=uI-bXEZH-3c
誤解されているトランプ大統領 ごうちゃんねる(キリスト教の牧師さん) 前編 反撃開始 逆転なるか米国大統領選挙 https://www.youtube.com/watch?v=D0Me1UAZSso 中編 反撃開始 逆転なるか米国大統領選挙 https://www.youtube.com/watch?v=R9H3BHTR_Fw 後編 反撃開始 逆転なるか米国大統領選挙 https://www.youtube.com/watch?v=kQCXjhIMNxg
闇の組織 ディープステート
will増刊号 元ウクライナ大使 馬渕睦夫 世界を支配するディープステートとの最終戦争が始まった will増刊号#297 https://www.youtube.com/watch?v=EtgGzJd96tc 元ウクライナ大使 馬渕睦夫 愛国者によるグローバリストへの逆襲’ will増刊号#298 https://www.youtube.com/watch?v=F36FYNH9A3Y
最新の情報
張陽チャンネル 第70回 https://www.youtube.com/watch?v=54NjoK7Z4uo 張陽さんの心意気 第1回 https://www.youtube.com/watch?v=HAAPEek5fP8
瞑想の藤堂先生のメルマガから 世界史の茂木誠先生のわかりやすい米大統領選の裏側「2020の妄想」 https://ameblo.jp/vedacenter-jp/entry-12640943253.html このなかの茂木誠さんの動画 15分ごろから 実名をだすとグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンからVANされるので皆んな発信にはくろうしている。さらには主流マスコミもバイデンを押して、真実の情報を隠蔽している。
女の子一人アメリカで現地突撃取材。日本の主要メディアの現地取材は無いの? 我那覇さんは自費で伝えてくれてます。 我那覇真子チャンネル トランプ弁護団記者会見2 シドニーパウエル弁護士 日本語訳 https://www.youtube.com/watch?v=buivUTHNe00
元共産党の中枢にいた人 古是三春_篠原常一郎 毎晩、晩酌やりながらその日の話題を話している https://www.youtube.com/watch?v=FG4dTkiUTuQ
言わずと知れた国際政治学者の藤井厳喜さん 藤井厳喜の『ワールド・フォーキャスト』 https://www.youtube.com/watch?v=B9ktq7lOfFQ
わかりやすい解説。すこぶる頭が良いと思う。 改憲君主等チャンネル 米国特殊部隊が突入 https://www.youtube.com/watch?v=5k8CHT93-xA
もっともアクセスの多いYouTuber 及川幸久 THE WISDOM CHANNEL https://www.youtube.com/watch?v=NChKo_n63hM
中国通の日本人 妙佛 DEEP MAX https://www.youtube.com/watch?v=cRc_sgLgIUU
とっさんtv https://www.youtube.com/watch?v=7eEl0ua_ydg
マスコミの世界にいたらしい人、すごい早口だけど、話が面白い。 闇のクマさん世界のネットニュースch https://www.youtube.com/watch?v=IxTjbvYXGao&t=1829s
トランプ大好き 石川新一郎チャンネル https://www.youtube.com/watch?v=RsQyI-rFET0
中国人の鳴霞さん CIA長官逮捕? 在中華系メディアが報道! オバマ逮捕の噂も/ 中国ワクチン・地方医師らも拒否 https://www.youtube.com/watch?v=_R3C14YAb-c
文化人放送局 https://www.youtube.com/watch?v=UvKQSXJfxSg
カナダ人ニュース https://www.youtube.com/watch?v=zD-fV8WINic
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米国大統領選挙に思う
2020/12/01(Tue)
善と悪が戦えば善は負ける。 何故なら、悪は卑劣な手段を使えて、その制限がない。無限といっても良いだろう。しかし、善は善ゆえに、卑劣な手段は使えない。従って使える手段は限られる。 だから、善と悪が戦えば、取るべき手段が無限にある悪が勝つ。
しかし、物事は二値の間の単純な関係では成り立たない。多くの要素を加える必要があるが、あまり多いと解りづらいので、一つの要素だけを加えてみる。すなわち善でも悪でもない第三の要素、人民である。
中里介山作、大菩薩峠、農奴の巻で、お銀さんと駒井甚三郎はそれぞれの方法で理想の共同体を作ろうとする。その中で、その共同体に参加する人々を、次のように分類している。
A 5% 理想に共鳴、真剣の同志 B 15% 上記に共鳴する準同志 C 60% 理想に無頓着、好奇心から参加、失望すると翻意する D 15% 食い詰め者、陰口を叩き、怠けて空きあらばサボる E 5% スパイ又は体制に反対する者。自利を優先する
この分類は底本を筆者意訳したものだが、この「農奴の巻」が書かれたのが1940〜41年ごろ、昭和でいえば15年か16年。日本が対米戦争を始める年に近い。
また、筆者の中里介山は国柱会の食客のような立場で、その定例会に出席していたらしい。その国柱会には満州国建国に携わった石原莞爾がいるから、その定例会で満州国建国の成否の話なども出たはずである。ということから、この割合は、満州国の建国に参加した人びとの動機であったと、と思っていて、当てずっぽうな数値ではないと思っている。
この分類に従えば、善はAB、悪はDE、そのどちらでもない人民がCということになろう。
ここから、悪は善との戦いに勝ったとしても、DEの悪のグループの中だけで自己完結していては、何のうまみもない。強いものが獲物を独り占めにして、下っ端はお零れがもらえるだけである。当然、不満ができて仲間割れが起きる。だから、彼らを満足させるためにも、どうしてもCの人民から富を収奪する必要が出てくる。
そして、ABの善も理想を実現するためにはCの人々の力が必要であり、Cを豊かにすることが善なるものの仕事である。これもABの中だけで完結していては、何の意味もないことになる。
従って、善も悪も、目的を実現するためには、Cの60%の人民の力が必要になる。善は人民からの協力が必要だし、悪は人民からの搾取が必要になる。ここに統治の方法に違いが出てくる。
それが、「シラス」と「ウシハク」である。古事記の中で語られる統治の形態の原理である。シラスは「知らす」が語源であり、ウシハクの「ウシ」主(ヌシ)が語源。「ハク」は刀を佩くのハクである。主人の力による統治ということになるだろう。
このことを考えながら、米国大統領選挙を見て行くと、トランプ大統領は「シラス」を目指し、バイデン大統領候補は「ウシハク」をしようとしているように私には見える。
果たして、米国民は、このどちらを選ぶのだろうか? 是非、「シラス」による統治を選んで欲しいと思っているが、果たしてどうなるのだろうか? 固唾をのんで行方を見守っている。
参考 「古事記 国譲り」に現れた「シラス」と「ウシハク」
ここに天の鳥船(トリフネ)の神を武御雷(タケミカヅチ)に副えて遣(ツカ)わす。ここに以ちてこの二柱の神、出雲の国の伊耶佐(イサナ)の小濱に降り至りて、十掬(トツカ)の剣を抜きて浪の穂に逆さに刺し立てて、その剣の先に趺(アグ)み坐(イ)て、その大国主(オオクニヌシ)の神に問いたまひしく、「天照(アマテ)らす大御神(オオミカミ)高木の神の命(ミコト)もちて問(トイ)の使いせり。汝が『領(ウシハ)ける』葦原(アシハラ)の中(ナカ)つ国に、我が御子の『知らさむ』国と言いよさしたまへり。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。
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鍾馗考 その2
2016/04/04(Mon)
IL-2(コンバットフライトシム)で、鍾馗を駆って列強の主な戦闘機と空中戦を行ってみました。その結果を動画にしてYouTubeにアップしました。
鍾馗対P38 双同の悪魔と恐れられたP38との空中戦。 https://youtu.be/i-R8asCFYJA
鍾馗対スピットファイアー さすが旋回戦に強いスピットファイアーです。なかなか勝てません。 https://youtu.be/fSsXGhZ2p_c
鍾馗対F4U(コルセア) 鍾馗は右エルロンを失った状態で戦い健闘しましたが、しかし最後は残念なことに……… https://youtu.be/R_jhFHiBqZQ
再びF4Uコルセアと対決。ついでにF4Fとも。 F4Uコルセアにリベンジ。ついでにF4Fもやっつけちゃいます。(;゚д゚)ァ…. https://youtu.be/QZELApGLLqE
鍾馗対零戦キラーのF6F。どちらの機体もコンピュータが操縦します。 なので性能の良い方に分があります。また、見てるだけなのでお気楽です。 https://youtu.be/D88ht7QrErM
最強の名機といわれるP51との対戦。 層流翼はもろかった? https://youtu.be/5B2_RTrZ1aw
と、いろいろ試しました。その感想は、ひとことで言えばパワフルの一言につきます。日本機らしからぬ強力さに加えて、運動性も旋回性能も蝶型フラップを効果的に使えば、アメリカ機などより良さそうな感じです。この感想は鍾馗に当時下された「重い、旋回戦に不向き、着陸が困難」などの評価とは程遠いものになりました。IL-2というフライトシムを通じて、私は鍾馗は零戦、隼よりも名機だと思うようになりました。鍾馗はもっと大きく評価されるべきです。
もっとも、このシムはロシア製なので、アメリカ機は若干弱く、ヨーロッパは強いように、プログラムが設定されている気がしないでもない。そんなことから現実を正しく反映しているかどうか疑わしいのですが、それでも零戦や隼という軽戦(軽く造られ旋回戦に優れる)に分類される戦闘機と違い、鍾馗は重戦(パワーと防弾を主眼に一撃離脱の攻撃を得意とする)の特徴を如何なく発揮してくれました。それは実際の鍾馗に下された評価と一致しています。
しかし、その高性能な割には、歴史上、実際の戦場では、鍾馗はあまり活躍していません。零戦や隼と同時期の1942年に実戦配備されていたのに、大東亜戦争の初戦において活躍する場面はほとんどないのです。製造数も1,200機弱と、零戦の1万機、隼の5,000機と比べて、開戦当初から造られていたにしては少ないのです。名機ならばもっと造られて良いはずです。鍾馗は大戦末期に出てきて日本機を大いに悩ませた2,000馬力級の先進的な戦闘機とも互角に渡り合える性能があるに、これはどうしたことなのでしょうか。
調べてみると、その理由は、航続力が3,000キロを越す零戦や隼と比べて、鍾馗は1,500〜1,600キロ(落下タンク使用)と、短いことが原因でした。
しかし、これはおかしい。ヨーロッパ戦線で戦っていたスピットファイアやメッサーシュミットの航続距離は多くても900キロ前後です。鍾馗の方が1.5倍以上も飛ぶことができます。また、日本軍機が大戦初期にもっともよく戦った、米軍のF4Fは1,300キロを少し超えるくらいです。鍾馗の方が長く飛べます。F6Fは1,520〜2,500キロですから、欧米の戦闘機と比べて航続力において遜色はないのです。したがって、もっと活躍できたはずなのですが、現実ははそうなっていません。これはどうしたことなのか、このように考えていたら、あることに気がつきました。
日頃、我々が慣れ親しんでいる、地図の表記法は、メルカルト図法といって、いわば地球儀を円筒状に見立てて表記された地図です。したがって赤道の幅でヨーロッパ大陸を見ていています。我々はこれに慣れているために、なんの疑問も感じてはいません。しかし、地球は球体だから南北の極に近づくほど実際の距離は狭くならなければならないのです。ヨーロッパ大陸は我々が地図で見ているより狭いのです。
1940年、ドイツ空軍とイギリス空軍の間で行われた大空中戦(バトル・オブ・ブリテン)で戦われた距離は、ロンドンとパリ間の340キロ程度です。東京から京都までの370キロの方が遠いのです。たったこれだけの距離なのに、ロンドンまでいって戦ったメッサーシュミットの何割かは燃料が尽きて基地まで帰ってこられずにドーバ海峡の冷たい水の中に沈みました。
また、連合軍とドイツ、双方の爆撃機が飛んだロンドンとベルリン間は940キロで、東京から鹿児島までの966キロより少ないのです。にもかかわらず、護衛戦闘機が飛べないため、護衛を伴わないで飛んでいたB17(爆撃機)はよく落とされました。ちなみに零戦が飛んだラバウルからガダルカナル島までは1,065キロです。
さらに、東部戦線では、ドイツはソ連のスターリングラードまで兵を進めますが、戦線が伸びきったため補給を続けられず破れました。そのベルリンからスターリングラードまでの距離は1,330キロ程度です。東京から沖縄までの1,560キロですから、ドイツは日本列島の半分程の距離でさえ補給を続けられなかったということになります。逆に言えば日本列島の距離での補給は困難を極めるということになりますね。北の北海道、網走市から南の鹿児島県、枕崎市までは1,870キロなのですから。
日本は、南はインドネシアやニューギニア、北はキスカ島やアッツ島のあるアリューシャン列島を作戦範囲としていました。ニューギニアの激戦地ラバウルまでは東京から4,623キロ。アリューシャン列島のアッツ島やキスカ島までは3,500キロ。
我が国は、およそ8,000キロを超える地域を作戦範囲としなければならなかったのです。この距離は北京からベルリンまでが7,370キロ程度ですから、陸上にしたらアジア大陸のみならずヨーロッパ全土を支配したに等しい距離になります。距離だけで考えれば、歴史上のどんな大帝国も支配したことない地域を一時期でも支配していたことになります。日本の陸海軍部はおそらくドイツが支配した地域の10倍を超える面積で作戦を立てなければならなかったはずです。
サイパン島が落ちてB29が東京を爆撃し始めましたが、東京とサイパン島の距離は2,360キロ。B29の航続距離6,600キロ(爆弾搭載時)があって初めて可能になりました。ベルリンを爆撃したB17の航続距離は3,200キロ(爆弾搭載時)ですから、B17では日本本土の爆撃など不可能だったことになります。
こういうことを考えると、ゼロ戦や隼の3,000キロを超える航続力が如何に必要とされていたかがわかります。確かに鍾馗の活躍できる距離ではなかったのです。
『 ヨーロッパと太平洋戦線では、戦場の広さや事情が全く異なっている。その点で、陸軍は選択を誤ることなく、太平洋戦争の主力戦闘機に隼を選んだ。中島は、隼の潜在能力である3,000キロを超える長大な航続力を引き出し、さらに武装の強化と蝶型空戦フラップの採用で軽快な運動性を兼備した戦闘機を完成させた。…………… 緒戦における隼の活躍には、次のようなものがある。 第一に、長大な航続力を駆使してマレー半島上陸部隊輸送船団の護衛任務を果たし、ついで、マレー、フィリピンなどの極東地域の英米航空戦力役300機以上を、零戦、97戦、鍾馗などとともに開戦大一日目に殲滅して、海軍が強行出撃してきた英東洋艦隊をマレー沖海域において撃滅するのに貢献した。 続いて二ヶ月の後、オランダ領スマトラのパレンバン製油所奇襲にあたっては、海軍機と強力して陸軍の空挺作戦を援護し、さらにはビルマ方面の英空軍を撃砕するなど、縦横無尽の活躍をしている。 このような作戦は、メッサーシュミットや鍾馗のようなスピードはあっても航続力の短い戦闘機では無理な相談で、隼を主力戦闘機としたことは正しい選択であった。(中島戦闘機設計者の回想:青木邦弘著)』
ということで、距離こそが、鍾馗を第一線で活躍させ得なかった原因のようです。しかし、第二次大戦、わけても大東亜戦争(太平洋戦争ではありません、これはアメリカが言うことで、日本は大東亜の解放を目指して戦ったのですから)において、この距離を考慮に入れ考察された論調は無いといってよいでしょう。零戦や隼は航続距離が長かったとは聞きますが、それが何故なのか、欧州の作戦とどのように違うのか、には誰もそれに答えてはこなかったように思います。わずかに青木邦弘氏の論調にそれを見いだすのみです。戦史をこの距離という観点から、もう一度見直す必要があると思います。
日本軍機の防弾思想について
それを見直すということで、日本軍機の防弾について考えてみます。
零戦に防弾装備がないことで、零戦の強さの秘密を暴こうとして躍起になっていた、米軍の調査チームが驚いたようですが、私は当初、この防弾せずは「武士道というは死ぬことと見つけたり」という葉隠に連なる日本人独特の思想だと思っていました。よく言えば死を恐れない、悪く言えば命を粗末にあつかうことになりますが、日本人ゆえの感性からくるものと思っていました。
しかし、実際は、陸軍戦闘機で防弾のないのは一式戦の隼の1型のみで、2型、3型となるにつれて防弾は強化されていったようです。隼(キ43)と同時にできた二式戦の鍾馗(キ44)には開発当初から防弾はしっかりと考慮されていました。三式戦の飛燕、四式戦の疾風、五式戦は言わずもがなです。したがって戦闘機に防弾を施さなかったのは海軍だけのようなのです。
海軍は零戦に防弾をつけなかったのみならず、爆撃機の一式陸攻などにもつけてはいません。だから米軍からワンショットライターなどと揶揄されました。爆撃機は動きが鈍く、戦闘機のように機敏に動いて射弾を回避することができません。打たれることが宿命のような機体なのですから、防弾をつけないのは愚の骨頂と言わねばなりません。
しかし、距離ということを考慮にいれて考えてみますと、海軍機は陸軍機と違い、洋上を飛ぶことを主とします。陸上を飛べば、燃料が尽きても不時着すれば生き延びられる可能性が十分にあります。しかし海上ではそうはいかない。海に落ちればそのまま死につながるでしょう。わずかでも燃料があり、その分飛ぶことができれば、どこかの島にたどり着けるかも知れません。パイロットの命は一滴の燃料に左右されると言えるでしょう。したがって防弾をする余地があれば、その分燃料を積もうと考えるのが人情というものかもしれないと思うようになりました。
防弾か航続力(燃料)か、お前ならどちらを選ぶ?、と問われれば、私も燃料の方を選ぶと思います。ですから海というものの恐ろしさが、海軍の作戦の潜在的なプレッシャーなっていたのではないでしょうか。だから無意識的に航続力を優先させてしまったように思います。防弾を優先させ得なかった、一番の理由は、今まで言われていた人命軽視の傾向より、日本軍が占領した、あまり長すぎる「距離」だったと言えるのではないでしょうか。
以上、鍾馗を飛ばして思ったことを書いてみました。それにしても、この距離を考えると、しなければならなかった戦(いくさ)とは言え、日本は、なんとも無茶苦茶な戦いをしていたものだと、つくずく思う次第です。
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鍾馗考 その1
2016/04/03(Sun)
私の趣味はフライトシミュレータで遊ぶことです。使っているフライトシムソフトはX−PlaneとIL−2ですが、X−Planeは平和の翼、IL−2は戦いの翼といったところでしょうか。
X−Planeはアメリカ連邦航空局(FAA)の飛行訓練用のシミュレーションソフトとして認められているもので、私はこれでバーチャル飛行免許を取ってやろうと訓練に励んでいます?。IL−2は第二次大戦が舞台のコンバットフライトシミュレーションゲームです。これで空中戦をたのしんでます。
このブログで、それらをご紹介しようと思っていたのですが、あれこれあって手が回らずのびのびになっていました。今回は、その重い腰をあげ、私の大好きな機体、陸軍二式単座戦闘機「キ44、鍾馗」を紹介してみたいと思います。
写真はX-Planeで飛ばしている鍾馗です。(平和の翼でも軍用機は飛びます)
写真1は調布飛行場上空1万メートルです。爆撃機のエンジンを積んだ大きな頭部と短い翼(翼面荷重が高い)が特長です。(真下に調布飛行場と味の素スタジアム、後方は多摩川)
写真2は、高度、位置は同じで、東京湾が望めます。向こうが房総半島、三浦半島も見えます。
写真3 1万メートルでは雲は下の方にあります。B29はこの高度で侵入し東京に爆弾を落として行きました。零戦や隼がここまで登ることは容易ではありません。鍾馗の大きく、大馬力のエンジンでかろうじて可能になります。
零戦や隼に名声に隠れて鍾馗はあまり目立ちませんが、これは大変な名機なのです。日本の宇宙開発、ロケット開発の父と言われた糸川英夫博士が若い頃、設計に携わりました。名だたる陸軍戦闘機「隼の」の設計も行いました。それで、2010年、宇宙探査機はやぶさが小惑星イトカワを訪れ、サンプルリターンを成功させましたが「はやぶさ」「イトカワ」の名前の由来はここから来ています。
その糸川博士が、『一式戦「隼」は時宜を得て有名だが、自分の最高傑作だと思っているのは、その次に設計した「鍾馗」である』と言っています。
また、戦後、日本陸海軍の軍用機を調査した米海軍航空情報部(TAIC)は、『急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)し、インターセプター(迎撃戦闘機)として、もっとも適切(Suitable)な機体』と言ってます。
鍾馗はもっと見直されてよい機体なのです。
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天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
2015/08/12(Wed)
天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋) 浅野晃 朗読 三島由紀夫 作曲・指揮 山本直純
30 ながいながい夜だった 彼らは耳を傾けてゐた じつにいろいろの声が 語りかけて来たから 父なる声 母なる声 姉なる声 師なる声 友なる声 逝いて遠い友の声さへ かれらは見たのだ めいめいの持場にあって 美しい形を まだ生まれない前に見た 数々の美しい形を 見たのだ 責務といふ名のもとに
66 アジアの岸の歌
曾て不毛の河辺に 寝ずの番してゐた彼らであった
天のどんな予兆も聞きのがすまゐと 全身を耳にしてゐた彼らであった
影に充ちた夜であった 草はやはらかく幼子のように 眠ってゐた 君たちもどこか草のように幼子めいて 見えていた
満点の星は身をふるわせて 縛されたされた女性を凝視してゐた アジアという名の漠たる女性は 漠たる永い夜に縛されてゐた
あの刻 彼らの耳は 何をきいたのか
さかしらな人間があやつる舞台が音たてて 廻っただけなのか けれど そんなことが 君らの願ひと 何のかかはりがある
君たちは装いを改めた 争って祖国の急に赴いた
花のような羞ぢらひのなかに 五月の夜よりもかぐはしく
やさしい思い出とも別れ 答えなき天に おのれの影を投げながら
ひとり世を超え おそれもなく ためらいもなく
意味ありげなものの虚妄を 悪しく意味づけられたものの虚妄を はげしく拒み また拒み
人みなが冷たしと見る アジアの岸の夜明け前に 虚妄の意味を焼きつくし おのれひとつの焔を燃えて
おそれもなく ためらひもなく 花のような羞ぢらひのなかに 五月の夜よりもかぐはしく
聖なる戦いの真実を おのれひとつに証(あかし)しして 闇の汐にの呑まれていった
君ら運命を超えて逝ったものよ いまこそ 魂を鎮めるとき
67 われらが尽きぬ夏の日は 青い海が白い船を逝かせ 渚に光あふれ 瞳燃え いかに永い別離が われらを捉え はるかな夜にさまよわせようとも いつもここで わたしらは出会ふ 生きるかぎり のちの世までも
68 ミンドロの岬から シブヤンの水道から スリガオの海峡から デナガットの海から ミンダナオの海から サン・ベルナルデイノの迫門(せと)から パラワンの島から スルアンの島から エンガノの沖から サマールの沖から レイテの沖から サイパンの島から テニヤンの島から グアムの島から アンガウルの海から ハルマヘラの海から パラオの島から ヤップの島から トラックの島から ルオットの島から クェゼリンの島から タラワの島から マキンの島から ペリリューの沖から モロタイの沖から ビアクの島から ニユーギニアの岸から ブーゲンヴィルの島から ソロモンの海域から ツラギの島から ガダルカナルの島から ルンガの泊地から ミッドウェイの海から アッツの島から 帰って来い 帰って来い 帰って来い
69 赤道の秋 ひややかにうねりを返す浪の背に 祖国の声が 青い天から 呼んでゐる 捧げた君らの 尊い名を
70 静謐で清淨な空間を充たす 無尽の光 このひたすらな挺身者 時は いま 重い足どりで 歩いている 偽りの歴史を じっくりと溶かすべく
71 すべては逝く 知つてゐたその人も逝く 録されたすべては亡びる けれど記憶は殘る けれど天は忘れない すこやかにありし日のまま
72 死を超へて なほも多くの日付がある
天と海 (完)
天と海
昭和40年(1965) 浅野晃 「天と海 英霊に捧げる七十二章」出版 昭和42年(1967) 三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化
『「天と海」の主部は、スンダ海峡を漂流しながら見たバタビヤ沖の海戦の強烈な印象が元になっている。輸送船団はみな錨をおろし、上陸ははじまっていた。その時私らの佐倉丸は、魚雷二発をうけて沈没したのであった。 終戦とともに私どもは北海道にのがれ、勇払(ゆうふつ)の曠野に五年住んだが、その間、思いは多くの戦いの終始、わけても若くして国に殉じたおびただしい英霊の上に走った。自然、「天と海」は、北の曠野にあって、遠く南溟を思う格好になった。私はこの一作に微力を尽くした。戦後20年を便々と生き存えた罪も、これで幾分かは償われたような気さえした。………「謝辞」より』
『「天と海」は、叙情詩であると共に叙事詩であり、一人の詩人作品であると共に国民的作品であり、近代史であると共に万葉集にもただちにつながる古典詩であり、その感動の巨大さ、慟哭の深さは、ギリシャ悲劇、たとえば、アイスキュロスの「ペルシャ人」に匹敵する。この七十二章を読み返すごとに、私の胸には、大洋のやうな感動が迫り、国が敗れたことの痛恨と悲しみがひたひたと押しよせてくる。浅野晃氏は、日本の詩人として最大の「責務」を果たしたのである。………三島由紀夫』
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