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不思議な旅
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米国大統領選挙と禊払いと大禍津日(おほまがつひ)の神
2021/01/04(Mon)

神話とは植物の種のようなものだと思っている。
満開の花を咲かせた桜の巨木も、時間を遡れば元は一粒の種が地に落ちて始まる。種から芽が出て、苗になり、枝葉が歳を重ねるごとに大きくなり、今日の巨木になったのである。それは種の時から約束されたことであり、時間が立つごとに確かなものになっただけだ。したがって今日の巨木も、すでに種の中に約束されていた事といえよう。時間という縁により、種の中に内在していたものが実現しただけなのだ。

こう考えてみると、我々が、今、観て、感じている我が国の歴史も、種の時代があったと考えることも出来そうだ。では歴史の種とは何か。私はそれは神話だと思う。だから、すでに神話の中に、今日起こっていることも約束されている筈なのだ。

種を特殊な電子顕微鏡(走査型光プローブ原子間力顕微鏡)でみれば、遺伝子の配列もみることが出来るようだ。同じように、特殊感覚の持ち主がいて、彼がその感覚を働かせて神話を覗けば、彼には未来に起こる出来事がわかり、古事記の神代の巻は、そうした感覚の持ち主が、それを、今日の我々に伝えるために残してくれたのものなのかも知れない。こう考えてみると、古事記の神代の巻きは予言の書であると言えないか?

このような考えに至った切っ掛けは、数年前から、特に韓国や中国、また我が国でも、可笑しなことをして自ら正体を晒してしまうような行動が随所で目立つようなって来たからである。

例えば、韓国のレーダー照射問題。ただ一言「間違えた、スマン」といえば終わっていたことを、日本の責任に転換した。韓国が長年、歴史の水面下で秘密裏に行ってきたことを自らの手で暴露してしまった。

また、中国が、香港に逃亡犯条例をゴリ押し、認めさせようとした事などもそうだ。
香港は1997年に英国より中国に返還される際、五十年間「一国二制度」として独自の自治を認められていた。それなのに25年そこそこでその約束を反故にしようとした。当然、香港住民の激しい怒りを呼ぶことになり、大いに治安が乱れた。この時は中国のゴリ押しが功を奏し法案は成立してしまった。

しかし、それが翌年の台湾の総統選挙に影響した。当初は中国寄りの韓国瑜氏が有利で、対抗する蔡英文氏を押しのけて台湾総統になるはずの勢いだった。しかし、香港が中国に飲み込まれたことにより、不利であった蔡英文が当選してしまった。習近平が、もう1、2年待てば、台湾は彼のもとに転がり込んだはずなのに。何を早まったのか、水面下に置いてあった野望を表に早く出し過ぎたために、積年の計画が頓挫してしまった。

日本のNHKや民放、あるいは新聞各社に代表されるマスコミの左翼偏向報道もそうだ。そんなにあからさまな偏向をしたら、気付かれてしまうようなことを平気でやっている。だから、ユーチューブで叩かれ、おかしいと感ずる人を増やしてしまっている。と、このようなことが目白押しに現れて、自ら正体を曝け出すような出来事が頻繁に起こっている。

では、神話では、このことをどのように述べているのか? イザナギの命が黄泉の国に行き、その国の穢れたことを悟り、その穢れを禊払いを行って洗い落とすのだが、その時、禍津日(おほまがつひ)の神が生まれてくる。これが現在、我々の周りに起こっている事だと、私は思っている。

この件(くだり)を古事記は次のように述べている。

ここを以(も)ちて伊耶那岐(いざなぎ)の大神(おおかみ)の詔(の)りたまひしく、「吾(あ)はいな醜(しこ)め醜めき穢(きたな)き国に到りてありけり。かれ吾(あ)は御身(おほみま)の禊(はらへ)せむ」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に到りまして、禊(みそ)ぎ祓(はら)へたまひき。
………
ここに詔(の)りたまひしく、「上(かみつ)瀬(せ)は瀬速(せはやし)。下(しもつ)瀬(せ)は瀬弱(せよわ)し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に降(お)り潜(かづき)て滌(すすぎ)たまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひ)の神。次に大禍津日(ほまがつひ)の神。この二神(ふたはしら)は、かの穢(きたな)き繁(し)き国に到りたまひし時の、汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

私見では、以下の表現は地名というよりは、物理学上の「場」の説明だと思っている。

日向(ひむか) → 日に向かう、明るい方を向く
橘(たちばな) → 言葉が立つ、という事。「ば」はコトノハの「は」すなわち言葉が生まれる所。言は事である。だから、物質の発現する場を表している。聖書でも「はじめに言葉あり」と言っている。「は」は始まりの「は」でもある。
小門(おどの) → 小さな、小さな門、すなわち、最小単位の入口
阿波岐原(あはぎはら) → 淡く、微かな、消え入りそうな、場

つまり、時間も空間の発現する以前の場のことで、宇宙が始まったと言われる特異点のことだ。そして、そこで神様が禊をしたら、人類文明が長い歴史を経るうちに身に付けてしまったさまざま悪癖や悪習が洗い落とされた、ということではないのかと思う。そうすると、その垢から、「まがつい」という禍々しい悪さをする神様が生まれてくるようである。

二柱の神様が生まれてくるが、最初に出てきたのが八十禍津日(やそまがつひ) の神。次に大禍津日(おほまがつひ)の神様が生まれる。八十(やそ)とは、「多くの」という意味で、無数のまがまがしい禍が起こるという事のようだ。問題はこの後に出てくる「大禍津日(おほまがつひ)の神」である。八十禍津日(やそまがつひ) の神様は、すでに述べたように、世界中で身晴れするような事件が数々起こっているから、おそらくその事であろう。

大禍津日(おほまがつひ)と、「大」の字がつかわれているからには、大規模な災が起きるという事ではなかろうか?。それは、どんな事だろう。当初は、地震、津波、彗星の落下などの大災害を予想していたのだが、どうも、そうではなさそうだ。

昨年の11月3日に行われた米国大統領選挙が、その災いではないかと思うようになった。この選挙では、滅茶苦茶な不正が行われた。その実態を知りたければ、二つ前に示したYouTubeのアドレスに飛べばわかる。しかし、米国も日本のマスコミはその事実を隠蔽しているので、ほとんどの人はその実態を知らずにいる。さらには、あからさまな事実があるにも関わらず米国の司法も知らん振りであるから、ほとんどの人々はバイデン氏が勝ったと思っているのだ。だが、事実は違う。

元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は「世界を支配するディープステートとの最終戦争が始まった」の中で、世界はトランプ大統領の陣営とウオール街の金融資本を牛耳るディープステートと中国共産党との三つ巴の戦いが始まっている、と言っている。これこそ善と悪との最終戦争であり、アルマゲドンなのだと言うのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=EtgGzJd96tc

どうやら、これは単なる大統領選挙という次元を超えて、歴史の闇に巣食う闇の勢力との戦いのようだ。YouTubeに、トランプ大好き、石川新一郎さんのチャンネル がある。

https://www.youtube.com/watch?v=KTfys8es2f0&t=25s

ここに「ワシントンからのメッセージ」が届いている。これを聞いていると、今まで陰謀論と思っていたことが、どうやら事実のようだ。飛行機事故で行方不明になっていたケネディ・ジュニアは生きていて、トランプ陣営を影からサポートしているらしい。ともかく、この戦いの後、全ての事柄が良い方向に向かうらしい。とは言っても、これを読んでいる方は「馬鹿馬鹿しい」と信じられない事だろう。だが、嘘か誠か、真実は、この二日後にわかる。

言い忘れたが、神話では「禍津日の神」の生まれた後に、『禍(まが)を直さむとして成りませる神』様が生まれ、さらに最後には、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、月讀命(つくよみのみこと)、建速須佐男命(たけはやすさのをのみこと)の三神がお生まれになる。
………
この時、伊耶那岐命(イザナギノミコト)大(いた)く歡ばして詔りたまひしく、「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に、三柱の貴子(うづみこ)を得たり」と詔りたまひて、喜んだということである。





万葉集の歌2題とトランプ大統領
2021/01/14(Thu)

天武天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 
時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如(ごと) 
隈(くま)もおちず 念(おも)ひつつぞ来る その山道を

この歌は天武天皇が壬申の乱に勝利した後、当時を振り返って詠われた歌である。大意は次の如く。

み吉野の耳我の嶺に、やむ時もなく雪が降りついでいる。間断なく雨が降りつづいている。その雪がやむ時もなく降りつづいているように、その雨が絶え間もなく降りつづいているように、山道のすべての曲がり角ごとで、思い悩みながら歩いてきた、その山道を。

この念い悩んだこととは、どんなことだったろう。私は、兄の天智天皇が蘇我入鹿を殺害し、大化の改新をしてまで実現したかった理想が、崩されて行く現状を見ながら、それに目をつぶり生きて行くか、またはその理想を実現するために自分が先頭に立つべきかで、悩んでいたのではないかと思う。

理想実現のために立ち上がれば、兄、天智天皇の御子であり、自分にとっては甥っ子である弘文天皇(第39代? 672-673)に弓を引くことになる。しかし、立ち上がらなければ、皇統はいずれ息を吹き返す地方の豪族たちの私利私欲によって絶えてしまうかもしれない。「シラス」の理想は潰え「ウシハク」に取って代わられる。「どうすべきか?」と悩まれた時の歌ではないかと思っている。

大海人皇子(天武天皇)は悩んだ末に、壬申の乱を起こし、終には勝利し、次々と政策を実行して行く。

古事記と日本書紀の作製指示、神道の形態の確立、伊勢神宮の式年造営を定め、仏教を国家によって保護、律令国家を建設(ハード面 藤原京、ソフト面 飛鳥浄御原令→後に大宝律令として完成)など、まさに日本という国家の原形を作り上げたと言って良い。特に、古事記の編纂は特筆に値する。

古事(ふること)の ふみおらよめば いにしえの てぶりこととひ 聞見るごとし

本居宣長が古事記伝を、35年かけて、心血を注いで研究し完成させた時に、詠んだ歌である。その古事記を読んで行けば、上古の人々の、生活や、考え方、物の見方、語り合う事ごとが、今のわれわれが眼前で見て聞いているようにわかる、と言っているのである。

今日、縄文時代の遺跡が数々発掘され、従来の概念を覆して、新しい視点を与えてくれてはいるが、しかし、それらは、すべて遺物から推測される事柄だけである。縄文人の息吹、その生き生きした姿を知ることはできない。その姿を知るには古事記、日本書紀、万葉集に頼るしかないのである。付け加えれば、成立の分かっていない万葉集も天武天皇の発案であっても、おかしくないと思っている。

口伝で伝えられている古代の人々の姿を、後世にありありと正しく残すには、それらが、時代を経て風化して行く中で、文字として残すしかなかった。これが天武天皇の修史の着想となったのである。

小林秀雄は著書「本居宣長「の中で『・・この意識が天武天皇の修史の着想の中核をなすものであった。当時の知識人の先端を行くと言つてもいい、この先鋭な国語意識が、世上に行はれ、俗耳にも親しい、古くからの言伝へと出会ひ、これと共鳴するといふ事がなかつたなたならば、「古事記」の撰録は行なはれはしなかつた。そして、このやうな事件は、其の後、もう二度と起こりはしなかつたのである。』と言っている。

話を歌に戻す。天武天皇の悩みの根源は、すでに述べた「シラス」の原理が「ウシハク」に覆われようとしているのを座視すべきか否か、なのである。そう見てくると、私には、この歌が、今の我々が目撃している「トランプ大統領」の悩み、と直結してくるのだ。

始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と古事記に書かれた言葉がある。「天下を初めて治めた天皇」という意味であるが、この称号は、初代の神武天皇と、第10代の崇神天皇に与えられている。余談だが、これを持って神武天皇と崇神天皇が同一人物であるとの説が左翼学者の間で横行しているが世迷言である。「ハツクニシラス」とは、建国の理念を実行した天皇、と解されるべきである。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)=神武天皇に「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は、汝(いまし)の知(し)らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降(あも)りすべし」と仰せられた。つまり「シラス」を実行して日本を治めよ、という意味だ。「シラス」を実行する事が建国の理念なのだ。

しかし、その「シラス」の統治原理は、第2代、第3代と時を経るごとに曖昧になり、第10代の崇神天皇の頃になると、地方豪族が私利私欲のために反乱を起こし、日本を「ウシハク」して治めようとする動きが出てきた。そこで、崇神天皇は大改革を行い、初代天皇の「シラス」の原理に戻したと記紀は伝えているのである。

人は欲に溺れやすい。最初に崇高な原理で建国された国家も、時を経るごとに、身に垢がつくように、次第に汚れてくる。したがって時々、禊をして、垢を洗い落としリフレッシュして元に戻してやらねばならない。

そして、それは長い歴史の中で何度でも起こる。第10代崇神天皇より数えて第32代の崇峻天皇は蘇我馬子により暗殺されてしまうのである。「シラス」が「ウシハク」に取って代わられる危機が再び起こってきた。この危機の時、聖徳太子が現れ一七条憲法を制定し、三経義疏(法華経、勝鬘経、維摩経の注釈書(義疏・注疏)を表し仏教を広め、人のあるべき道を示すが、蘇我氏の横暴は止まず、「シラス」危うい立場に陥る事になる。日本の歴史上でも、建国の理想の最大の危機と言って良いだろう。

これを止めたのが、大化の改新を起こした天智天皇なのだが、天智天皇亡き後「シラス」原理は曖昧になって、再び「ウシハク」に覆われようとしていた。それを覆し、元の「シラス」原理を打ち立て成功させたのが、弟の天武天皇だ。

そういう見地で見ると壬申の乱も、再び建国の理想に戻す為には必要な戦だった。そして、それを行なった天武天皇にも「ハツクニシラススメラミコト」の称号を与えても良いと思う。もっとも、古事記は推古天皇までで終わっているし、記紀編纂を命じた天皇だから、当然、書かれることは無い。過去の事績を伝えるのに用いる「ハツクニシラススメラミコト」なのだから。とは言え、記紀には書かれる事はなかったにしろ、後の世に生きる我々は、それを肝に銘記すべきだろう。さらに言えば、トランプ大統領もアメリカの失われようとしている建国の理想を戻し、再び実現させた大統領になる筈だから「ハツクニシラス」と呼んでも良いではないか。

舒明天皇の御歌

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝(ね)にけらしも

夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寝てしまったのだろう、という意味である。

斎藤茂吉は「いねにけらしも」の一句は「まさに古今無上の結句」「万葉集中最高峰の一つ」と評価している。

私が若い頃、影響を受けた山口悌治先生の「万葉の世界と精神」には『この御製(ぎょせい)には、惻々(そくそく)として身に迫ってくるものがある。それはこの御製を支えている名状し難い静けさである。文学的な鑑賞眼などでは、とうていとらえることのできない、その静寂の深さである。………舒明天皇をとり囲んで、ひしひしと迫ってくるのは、物音一つしない無限の静寂である。森々と深まりゆく宵闇である。………この御製全体を、胎盤の如く包んでいるものは、舒明天皇のあの「沈黙」だと思うからである。』と評している。

確かに、歌に不慣れな私にも、尋常ならざる静けさは感じられる。しかし、この時、舒明天皇のおかれていたお立場はどうであったか?。これを解さなければ山口先生が「舒明天皇の「沈黙」と書かれた意味がわからない。もう少し山口先生の解説を読んでみる。

『推古天皇の崩御後における皇位継承の紛争。蘇我蝦夷(そがのえみし)を一方の主軸とする群卿の対立抗争の間に処して「沈黙」を守り通して、密かに聖徳太子の悲願の達成を祈念せられた、あの「沈黙」の意義の深さを想わずにはいられないからである。そしてその「沈黙」の祈りの中から、大化の改新の指導者であり完成者である、天智天皇と天武天皇のご兄弟の皇子を見事に育て上げられたのである。舒明天皇に関する限り、このことはは決してわすれられてはならない。』。先に書いたが、第32代の崇峻天皇は暗殺されている。舒明天皇の周りでは陰惨な権力闘争が起こっていたのである。

皇極天皇ーーーーーーーーーーーーー舒明天皇
(第35代)     |     (第34代)
斉明天皇      |
(第37代)     |
     ―――――|――――-
      |          |
   天武天皇       天智天皇
   (第40代)     (第38代) 
   673~686       626~672

「ウシハク」を行おうとする者は、目的のためには、暴虐の限りを尽くしも恥じない。「シラス」を目指す者は、常にこの妨害に遭いながら、政(まつりごと)を行うのが世の常のようである。そして「ウシハク」は時間とともに増殖する。だから、時々リセットしてやらなければならない。

それは正に現代だ。アメリカで起きている、2020年11月3日〜2021年1月20日のアメリカ大統領選挙は、その最大級の出来事である。トランプ大統領はほしいままに跋扈するDSと中共の間にあって、気が熟するまで、この「沈黙」を貫かれたのであろう。だが、今、機は熟し時は来た。

アメリカ版、大化の改新だ。それには壬申の乱の様に軍事力が必要になる。グレイト リセットはバイデン側の標語だが、皮肉なことに、その軍事力によってグレイト リセットされるのは彼らになるのだ。もう少し、もう少し。





ホワイトハウス捕虜収容所出現?
2021/01/20(Wed)

ふと思った。
今、ホワイトハウス周辺は鉄条網をつけたフェンスで囲まれているそうである。トランプ大統領を支持する為に集まった人が暴動を起こした場合、大統領就任式に集まった人々を守る為らしい。
また、そうした暴徒からバイデン大統領候補たちを守るため2万5000人以上の兵士が集まっていると言う事である。
幾ら何でも、その目的の為の手段としては大袈裟過ぎないか?
ふと、映画の大脱走を思い出した。スティーブマックイーンがオートバイで飛び越えようとした捕虜収容所のフェンスだ。
そこで気がついた
今回の不正選挙に絡んだ人々はあまりにも多く、おそらく万を超えるだろう。グアンタナモの刑務所が、そんな彼等のすごす場所となるようだが、彼らが一斉に捕らえられた場合、輸送を考えると一度には無理だろう。そこで、仮説の収容所が必要になる。米軍はホワイトハウスに、その収容所をつくったのではなかろうか。ことによると、軍事裁判はここで行われるかもしれない?。そしてそれは、テレビ中継される。なんという皮肉。でも、史上最大の不正選挙を行おうとした者たちにはふさわしいのかもしれない。不思議な旅の第一歩は前代未聞の収容所から始まるのかも知れない。





不思議な旅
2021/01/26(Tue)

昨年(2020)の5月ごろから、奈良へ行かなければ、と言う思いが次第に強くなってきた。そんな時に「先生、民泊を始めたから奈良に来ない」と、かって患者さんだった方から連絡がきた。その方は奈良の旧家を継ぐことになり、その旧家を改造して民泊の施設を作ったのだという。「行く行く」と二つ返事で答えてしまった。

なぜそんなに奈良が気になるのかと言うと、およそ45年前から、8回ほど奈良の史跡を歩いていたが、その時、3カ所で不思議な体験をしたからである。

初めは昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山で、2回目は昭和51年(1976)3月の吉野山、如意輪寺にある後醍醐天皇の御陵で、3回目は昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社の奥にある藤原鎌足公の御陵で。

1回目の鳥見山の体験は後で述べるとして、2回目の不思議体験は二泊三日の行程で、その初日、私は先にのブログで書いた天武天皇の御歌の「耳我の峰」を探して、明日香川を遡り、栢森(かやのもり)、 芋峠、吉野神宮に至る、およそ15、6キロの道を歩いていた。

先のブログで書いた耳我の峰は、天武天皇が皇位を一度は断念し、出家し、吉野に下る際に通った山路にある峰とされていて、そのルートは、三本あると推定されている。その一本を、国土地理院の2万5千分1の地図を頼りに歩いていた。

印象深かったのは、当時の明日香川は源流にさかのぼるにつれ、川幅は狭まり、これが万葉に歌われた川かと思うほど、どこにでもありそうな小川にだったが、さやけさは一層増すようだった。午前10時ごろの日差しの中で、栢森(かやのもり)の道は、人っ子一人と通らず、途中の板塀に、明治か大正の時代に作られたかと思えるブリキ製の錆びた仁丹の看板が、板塀に張り付くようにかかっていて、まるで街全体が時を止めて眠っているように思えた。

しかし、そこを過ぎ、吉野への山道に入ると、その半分ぐらい行程のところで、ダンプカーが行き交い、新しい道路を造っていた。大いに興が削がれた。おかげで、耳我の峰と思える形の峰を見ることはできなかった。

造成仕掛りの道を通って吉野神宮にお参りして、この日は吉野山の旅館に一泊し、二日目は吉野水分(みくまり)神社、金峰山寺を観光し、如意輪寺を尋ねた。

そこで、ふと、後醍醐天皇の御陵への案内板を見つけたので、そちらに歩を進め、御陵の前に立った時である、その日は、3月の、温かさを増してくる春の日差しが心地よく、空はよく晴れていたのだが、それまで、静まり返っていた林が轟々と音を立てて騒いだのである。今まで晴れいた空は雪空に変わり粉雪が降ってきた。

天候のあまりに変わりようと、山鳴りかと思うような木々のざわめきに驚くとともに、畏敬の念に打たれて、おもわず合掌してしまった。数分が過ぎると、木々のざわめきは消えて、青空が戻ってきた。これが奈良の旅で出会った不思議体験の2度目である。

吉野駅より近鉄に乗り帰路に着いたが、電車が駅を離れる時、そばにいた人が、後醍醐天皇の御陵のあるあたりを指して、あすこだけ雪雲がある、とい言っていた。つられて、私もその方を見ると、御陵を包むように灰色の雪雲が覆っていた。誰かが「なごり雪やねー」と言った言葉が妙に耳に残った。

その言葉で、私に名残を惜しんでくれたのか、とも考えたが、まさか、そんなことはなかろう。でも、不思議な感じは、より強くなった。何のご縁かはわからなかったが「もう一度、お酒持ってお参りに来ます」と御陵に向かって思った。

同じような体験はの3度目は、昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社にお参りした時に起こった。神社の横手にある案内板で、御破裂山(ごはれつやま)山頂に藤原鎌足公の御陵があるとわかったので、そちらに向かった。

2月22日、前日は大雪が降ったので、談山神社は社殿も、有名な十三重の塔もすべては雪景色の中にあった。しかし、この日は、よく晴れて、白い雪と青い空のコントラスト目に焼きつくようだった。歩をすすめる急勾配の山道も雪の中である。よほどの物好きなければ、こんなルートは選ばないだろう。その白い雪の中に点々と私の足跡だけが残っていた。

2、30分歩いただろうか。10メートルくらい先に 御陵の祭壇が見えてきた。その時、突然、猛吹雪に見舞われた。2、3メートル先しか見えない。御陵の祭壇は完全に見えなくなった。「一転にわかに、かき曇り」という言葉があるが、まさにそれである。周りの樹木は靡き、唸っているように聞こえた。

立ち止まり、合掌すること数分、起きた時と同じように突然吹雪は止んだ。青空は戻り、穏やかな日差しの中で、藤原鎌足公の御陵に参拝できた。次に来る時は、ここにもお酒を持ってこなければと考えていた。

以上は、私に身に、43、4年前に起こったことだが、一回目の不思議体験は、45年前の、当時27歳の私と、現在の2020年10月26日の72歳の私に起こったことなので、併記して書いてみた。

昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山を訪れた。ここを知ったのは上智大学の渡部昇一先生の紀行文からで、鳥見山の山頂に神武天皇が大和を平定したのち、初めて霊畤(まつりにわ)を行ったところである、と書かれていた。

霊畤については、等弥神社のパンフレットには次の文がある。『霊畤は、国で採れた新穀及び産物を供えられ、天皇御自ら皇祖天津神々を祭られ、大和平定と建国の大孝(たいこう)を申べ給うた大嘗会(だいじょうえ=大嘗祭のこと)の初の舞台です。いわば我が国建国の聖地と言えるでしょう。』

大嘗祭とは、新天皇が即位して最初に行われる新嘗祭ということだから、宮中の最も尊く重要な儀式の原点がこの鳥見山なのだ。しかし、前後の教育の影響か、タクシーの運転手も場所を知らなかったと渡部昇一先生は書かれていて、いわば、忘れ去れようとしている所のようなので、それでは、是非とも行かなければ、と思って訪れることにしたのだった。

私は地図を持って、等弥神社の前に立っていた。その時、神社を守る二頭の狛犬の像が妙に気になったのだけれど、気のせいかと思い、山の登り口を探した。地図には一本の道しか載っていなかった。しかし、等弥神社の拝殿の左右にそれぞれ道があって、どちらが本道か迷った。できれば道に迷いたくなかった。持病である膝が痛み出していたから。

拝殿の左の道は平坦で、右の道はいくらか登りの勾配があったので、山に登るのだから、多分こっちだろうと思って、そちらを選んだ。しかし、しばらく登りが続いていたと思ったら、下るようになってしまった。もう少し歩けば登りになるかと思い、歩き続けたが、川に出てしまった。川の両側は自然にできた勾配で、コンクリートなどで護岸工事されいず、人の手の入らない自然そのままの川のようだった。

川が流れていれば低地なので、ようやく道を間違えたことに気づき、引き返すことにした。膝の痛みは少しづつ増してきた。やっとの思いで、元の場所に戻ることができた。30分くらい時間を無駄にしたろうか?。

さて、こっちが本道と思われる、左の道を歩こうとすると、二匹の犬に行き手を遮られた。猛然と啼いている。そしてデカい。72年の生涯を通じても、あんな大きな犬に出会ったことはない。子牛をわずかに小さくした感じである。

こんなのに襲われたら命は一溜まりもなく失われるだろう。困った。どうするか?、登山を断念して帰るか、とも思ったが、ここまで来て引き返すのも癪である。写真を撮るために三脚を持っていたので、襲われたら、これで応戦しようと考えたが、尋常ではない大きさと、二頭いることを考えたら、十中八九、死ぬな、と思った。そして、エエい、死んでも構わん、神武天皇の事績を見るために命を落としても、それは本望と思い、一歩、歩を進めた。すると二匹は一歩後ずさりした。もう一歩進んだ。二匹は後ろを向いて、ワンワンと吠えながら逃げていった。

良かった、とホッとして、歩きだしたが、歩く前方から犬の鳴き声が常にしている。いつ、反転して襲ってくるか?、ビクビクしながら歩を進めていった。すると、道は再び左右に分かれた。犬の鳴き声は右の道から聞こえてくる。膝の痛みを考えると、もう道を間違えたくない。しかし、この時になると、心の中に、怖いという思いと、親しいという、相反する思いがしてきて、もしかしたら犬どもは俺を案内しているのではないか?という気がしてきた。それで、思い切って声のする、右の道を選んだ。

その道を5分ぐらい歩いたか?、急に開けた場所に出た。ちょうど展望台になっていて、そこから、畝傍、耳成、香具山の大和三山が、最高のロケーションで見ることができた。このことは渡部昇一先生も述べていたが、35ミリの広角レンズを使えば、ワン・ファインダーで収めることができる。

前回の奈良の旅で、山辺の道の金谷、海拓榴(つばいち)付近で、大和三山を写真に撮ってみたが、とても一回で収めることができず、三枚のパノラマ写真にして収めなければならなかった。ところが鳥見山展望台?では、きれいに一枚に収まるのである。ここから眺める大和盆地は絶景と言うほかない。

そして、ここで、もう一つ気付いたのが巨大な石碑である。私の背の丈の2倍以上はあろうかと思われる高さで、表面には1センチ5ミリ角ぐらいの小さな漢字が上から下まで、びっしりと刻まれていた。読んではみたが、見たこともない字でほとんど判読できなかった。一応写真に収め、後で読もうと思ったが、写真で見ても分からなかった。(この時の写真は、家内が生前子供の成長記録をまとめようと、集めていた写真の束の中にあるはずだが、その数があり過ぎて、日々の仕事と、その他の整理で、簡単には見つかりそうもない。とりあえず、この文を完成させてから、ゆっくり探し、あれば、ここに載せようと思っている。)

頂上はまだ先なので、そこを後にして、歩きはじめて気づいた。さっきまでしていた犬の鳴き声がしない。どこかへ行ってしまったようだった。ホッとしたのと、寂しいのと妙な気持ちだ。さらに歩いていると、左からの道と合流した。もし犬の声を避けて、左に行ったら、さきの場所とは出会えなかったな、と思った。二匹の犬が導いてくれたようだった。

そして、とうとう頂上と思われる、開けた場所に着いた。霊畤の文字の刻まれた、およそ膝くらいの三角形の石碑を確認するとほぼ同時に、林が騒ぎ出した。先にも書いたが、一陣の風とともに木々が揺れて、騒ぐのである。すでに書いてきた体験は、この後の不思議体験である。この時が、初めての体験なので、恐れ多くなり、来てはいけないところに来てしまったと思った。跪いて合掌していた。

以上が45年前に体験したことだが、その三箇所で、もう一度来ますと、心に誓ったことなので、いつか奈良を訪れ、供物と酒を捧げようと決めていたが、難病を病む家内の介護があって、訪れることは叶わなかった。その家内も2年前に亡くなり、子供も独立し、独居老人のお仲間になれたが、コロナ騒動で、訪れるチャンスはなかなか巡ってこなかった。

そんな折の、誘いなので、昨年の10月25、6、7日の二泊三日の予定を組んだ。行くべき場所は、すでに述べた三箇所である。民泊の宿は大和八木にある。不思議体験三箇所のど真ん中にあると言って良い場所だった。まるで仕組まれていたようだった。

供物は、新潟のコシヒカリの新米、スルメ、塩、酒は二合瓶で八海山を用意した。1日目は吉野の後醍醐天皇の御陵、2日目の午前中に多武峰の藤原鎌足公の御陵を訪れ、用意したものを献上し祈りを捧げた。また、不思議な現象は起こるかなと、わずかな期待があったが、二つの場所では何事もなかった。

26日の午後、鳥見山の等弥神社を訪れた。昔は見捨てられたような神社だったが、今は参拝客も多いのか、登山の為の無料貸し出しの六角棒や、土産物なども売っていて、地域の人々の参加する催しもあり、賑わっているようなので安心した。

神社の社殿に立って、右を見ると、かって迷い込んだ道があるはずなのだが無かった。川はあるが、両側をしっかりコンクリートで固められて、まっすぐに流れていた。45年の歳月が感じられた。さて、右の道を歩こうとすると、ここにも変化はあった。平坦な道はなくなって、赤い鳥居があり、参道は階段を登るようになっていた。当時、このような作りになっていれば、迷うことなく、こっちを選んだと思う。

その階段を登り、山道を歩いているのだが、二股に分かれた道がない。展望台はどこに行ったのだろう?、探しながら歩いていると、50センチほどの高さの登る小道を見つけたので、そこを登ると、かっては展望台になっていたであろう場所に出た。しかし、杉の木が視界を覆い、大和三山を見ることはできなくなっていた。石碑はあったが、『見わたせば 大和国原ひとめにて 鳥見のゆ庭の 跡ぞしるけき』と書かれていた。

歌の文面から、ここが、かって大和三山をワンショットで撮った場所だと知れるが、和歌で、しかも現代の人が歌った歌である。ひらがながあるから、背丈の2倍ある漢字のビッシリと彫られた石碑ではない。では、あの石碑はどこに? この旅の大きな目的は、その石碑に書かれた漢文を読んで見ることだった。読めなくても、せめて何を表そうとしたのかを知りたかったのだが、その石碑がないのである。

ネットで探していた時に、ようとして見つからないので、現地を訪れば分かると思っていたが、これはどうしたことだ?

まだ先に歩いて行けば、あるのかもしれないと思い、歩き続けていたら、山頂に着いてしまった。霊時の石碑がそこにあった。間違いなさそうだが、記憶と全く違う。あの時、霊時と書かれた石碑は、こんな長い形では無かった。もっと底辺のひろい、堂々とした三角形だった気がする。霊時の文字も、こちらは草書のようだが、私の見たのは隷書のような文字で、くづしは無かったように思う。

その石碑が置かれている敷地の広さも違う。かった見た時は、もっと広く、100人ぐらい優に並べる広さがあった。ここでは10人ぐらいが関の山だろう。供物を捧げる儀式には神武天皇一人で行われたのだろうか?様々な文官、武官を従えての祭りを行うには、狭いような気がする。もっとも、新嘗祭は天皇陛下お一人でなされるそうだから、狭くても良いのかもしれないが、いずれにせよ、かって私が見たものとは、全然違っているのだ。

これは、いったいどうしたことだ?。狐につままれた? わけがわからなくなったが、とりあえず、持ってきた供物とお酒を供え、祈りを捧げた。それを終えて、山道を下り帰路に着いたが、下り終わるあたりで、下からおばあさんが登ってきた。挨拶したら、声をかけられたので、少し話をした。

なんでも、83歳になって、足腰が衰えてきたので、少しずつ上り下りして鍛えているそうである。「小学生の時はこの山の隅々までを駆けずり回って遊んでいたのに、今は、やっとの思いでここまで来るのですよ」。というので質問してみた。83歳なら11歳私より年上だから、私が27歳の時にはおばあさんは38歳。

当時を十分知っていると思って、「私の背丈の2倍ある石碑はありませんか?」と聞いてみた。キョトンとして答えられた答えが「そんなのありません」ということだった。「では二匹の大きな犬は?」いくらなんでもあんな大きな犬が野犬のように山を駆けずり回っていれば記憶しているはづである。しかし「そんな犬はいません」という答え。

混乱してきた。社務所をおとづれ宮司さんに同じ質問をしてみた。私は50年前からここにいるが、見たことも聞いたこともないとのことだった。では、私は45年前、白昼夢を見ていたことになる。

これが昨年私が体験した不思議な旅の物語である。私の不思議な旅は、これで終わったが、これからはトランプ大統領に連れて行ってもらえそうである。期待にワクワクしている。





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