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不思議な旅
2021/01/26(Tue)

昨年(2020)の5月ごろから、奈良へ行かなければ、と言う思いが次第に強くなってきた。そんな時に「先生、民泊を始めたから奈良に来ない」と、かって患者さんだった方から連絡がきた。その方は奈良の旧家を継ぐことになり、その旧家を改造して民泊の施設を作ったのだという。「行く行く」と二つ返事で答えてしまった。

なぜそんなに奈良が気になるのかと言うと、およそ45年前から、8回ほど奈良の史跡を歩いていたが、その時、3カ所で不思議な体験をしたからである。

初めは昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山で、2回目は昭和51年(1976)3月の吉野山、如意輪寺にある後醍醐天皇の御陵で、3回目は昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社の奥にある藤原鎌足公の御陵で。

1回目の鳥見山の体験は後で述べるとして、2回目の不思議体験は二泊三日の行程で、その初日、私は先にのブログで書いた天武天皇の御歌の「耳我の峰」を探して、明日香川を遡り、栢森(かやのもり)、 芋峠、吉野神宮に至る、およそ15、6キロの道を歩いていた。

先のブログで書いた耳我の峰は、天武天皇が皇位を一度は断念し、出家し、吉野に下る際に通った山路にある峰とされていて、そのルートは、三本あると推定されている。その一本を、国土地理院の2万5千分1の地図を頼りに歩いていた。

印象深かったのは、当時の明日香川は源流にさかのぼるにつれ、川幅は狭まり、これが万葉に歌われた川かと思うほど、どこにでもありそうな小川にだったが、さやけさは一層増すようだった。午前10時ごろの日差しの中で、栢森(かやのもり)の道は、人っ子一人と通らず、途中の板塀に、明治か大正の時代に作られたかと思えるブリキ製の錆びた仁丹の看板が、板塀に張り付くようにかかっていて、まるで街全体が時を止めて眠っているように思えた。

しかし、そこを過ぎ、吉野への山道に入ると、その半分ぐらい行程のところで、ダンプカーが行き交い、新しい道路を造っていた。大いに興が削がれた。おかげで、耳我の峰と思える形の峰を見ることはできなかった。

造成仕掛りの道を通って吉野神宮にお参りして、この日は吉野山の旅館に一泊し、二日目は吉野水分(みくまり)神社、金峰山寺を観光し、如意輪寺を尋ねた。

そこで、ふと、後醍醐天皇の御陵への案内板を見つけたので、そちらに歩を進め、御陵の前に立った時である、その日は、3月の、温かさを増してくる春の日差しが心地よく、空はよく晴れていたのだが、それまで、静まり返っていた林が轟々と音を立てて騒いだのである。今まで晴れいた空は雪空に変わり粉雪が降ってきた。

天候のあまりに変わりようと、山鳴りかと思うような木々のざわめきに驚くとともに、畏敬の念に打たれて、おもわず合掌してしまった。数分が過ぎると、木々のざわめきは消えて、青空が戻ってきた。これが奈良の旅で出会った不思議体験の2度目である。

吉野駅より近鉄に乗り帰路に着いたが、電車が駅を離れる時、そばにいた人が、後醍醐天皇の御陵のあるあたりを指して、あすこだけ雪雲がある、とい言っていた。つられて、私もその方を見ると、御陵を包むように灰色の雪雲が覆っていた。誰かが「なごり雪やねー」と言った言葉が妙に耳に残った。

その言葉で、私に名残を惜しんでくれたのか、とも考えたが、まさか、そんなことはなかろう。でも、不思議な感じは、より強くなった。何のご縁かはわからなかったが「もう一度、お酒持ってお参りに来ます」と御陵に向かって思った。

同じような体験はの3度目は、昭和53年(1978)2月、多武峰(とうのみね)の談山神社にお参りした時に起こった。神社の横手にある案内板で、御破裂山(ごはれつやま)山頂に藤原鎌足公の御陵があるとわかったので、そちらに向かった。

2月22日、前日は大雪が降ったので、談山神社は社殿も、有名な十三重の塔もすべては雪景色の中にあった。しかし、この日は、よく晴れて、白い雪と青い空のコントラスト目に焼きつくようだった。歩をすすめる急勾配の山道も雪の中である。よほどの物好きなければ、こんなルートは選ばないだろう。その白い雪の中に点々と私の足跡だけが残っていた。

2、30分歩いただろうか。10メートルくらい先に 御陵の祭壇が見えてきた。その時、突然、猛吹雪に見舞われた。2、3メートル先しか見えない。御陵の祭壇は完全に見えなくなった。「一転にわかに、かき曇り」という言葉があるが、まさにそれである。周りの樹木は靡き、唸っているように聞こえた。

立ち止まり、合掌すること数分、起きた時と同じように突然吹雪は止んだ。青空は戻り、穏やかな日差しの中で、藤原鎌足公の御陵に参拝できた。次に来る時は、ここにもお酒を持ってこなければと考えていた。

以上は、私に身に、43、4年前に起こったことだが、一回目の不思議体験は、45年前の、当時27歳の私と、現在の2020年10月26日の72歳の私に起こったことなので、併記して書いてみた。

昭和50年(1975 )11月、大和櫻井にある等弥(とみ)神社のある鳥見山を訪れた。ここを知ったのは上智大学の渡部昇一先生の紀行文からで、鳥見山の山頂に神武天皇が大和を平定したのち、初めて霊畤(まつりにわ)を行ったところである、と書かれていた。

霊畤については、等弥神社のパンフレットには次の文がある。『霊畤は、国で採れた新穀及び産物を供えられ、天皇御自ら皇祖天津神々を祭られ、大和平定と建国の大孝(たいこう)を申べ給うた大嘗会(だいじょうえ=大嘗祭のこと)の初の舞台です。いわば我が国建国の聖地と言えるでしょう。』

大嘗祭とは、新天皇が即位して最初に行われる新嘗祭ということだから、宮中の最も尊く重要な儀式の原点がこの鳥見山なのだ。しかし、前後の教育の影響か、タクシーの運転手も場所を知らなかったと渡部昇一先生は書かれていて、いわば、忘れ去れようとしている所のようなので、それでは、是非とも行かなければ、と思って訪れることにしたのだった。

私は地図を持って、等弥神社の前に立っていた。その時、神社を守る二頭の狛犬の像が妙に気になったのだけれど、気のせいかと思い、山の登り口を探した。地図には一本の道しか載っていなかった。しかし、等弥神社の拝殿の左右にそれぞれ道があって、どちらが本道か迷った。できれば道に迷いたくなかった。持病である膝が痛み出していたから。

拝殿の左の道は平坦で、右の道はいくらか登りの勾配があったので、山に登るのだから、多分こっちだろうと思って、そちらを選んだ。しかし、しばらく登りが続いていたと思ったら、下るようになってしまった。もう少し歩けば登りになるかと思い、歩き続けたが、川に出てしまった。川の両側は自然にできた勾配で、コンクリートなどで護岸工事されいず、人の手の入らない自然そのままの川のようだった。

川が流れていれば低地なので、ようやく道を間違えたことに気づき、引き返すことにした。膝の痛みは少しづつ増してきた。やっとの思いで、元の場所に戻ることができた。30分くらい時間を無駄にしたろうか?。

さて、こっちが本道と思われる、左の道を歩こうとすると、二匹の犬に行き手を遮られた。猛然と啼いている。そしてデカい。72年の生涯を通じても、あんな大きな犬に出会ったことはない。子牛をわずかに小さくした感じである。

こんなのに襲われたら命は一溜まりもなく失われるだろう。困った。どうするか?、登山を断念して帰るか、とも思ったが、ここまで来て引き返すのも癪である。写真を撮るために三脚を持っていたので、襲われたら、これで応戦しようと考えたが、尋常ではない大きさと、二頭いることを考えたら、十中八九、死ぬな、と思った。そして、エエい、死んでも構わん、神武天皇の事績を見るために命を落としても、それは本望と思い、一歩、歩を進めた。すると二匹は一歩後ずさりした。もう一歩進んだ。二匹は後ろを向いて、ワンワンと吠えながら逃げていった。

良かった、とホッとして、歩きだしたが、歩く前方から犬の鳴き声が常にしている。いつ、反転して襲ってくるか?、ビクビクしながら歩を進めていった。すると、道は再び左右に分かれた。犬の鳴き声は右の道から聞こえてくる。膝の痛みを考えると、もう道を間違えたくない。しかし、この時になると、心の中に、怖いという思いと、親しいという、相反する思いがしてきて、もしかしたら犬どもは俺を案内しているのではないか?という気がしてきた。それで、思い切って声のする、右の道を選んだ。

その道を5分ぐらい歩いたか?、急に開けた場所に出た。ちょうど展望台になっていて、そこから、畝傍、耳成、香具山の大和三山が、最高のロケーションで見ることができた。このことは渡部昇一先生も述べていたが、35ミリの広角レンズを使えば、ワン・ファインダーで収めることができる。

前回の奈良の旅で、山辺の道の金谷、海拓榴(つばいち)付近で、大和三山を写真に撮ってみたが、とても一回で収めることができず、三枚のパノラマ写真にして収めなければならなかった。ところが鳥見山展望台?では、きれいに一枚に収まるのである。ここから眺める大和盆地は絶景と言うほかない。

そして、ここで、もう一つ気付いたのが巨大な石碑である。私の背の丈の2倍以上はあろうかと思われる高さで、表面には1センチ5ミリ角ぐらいの小さな漢字が上から下まで、びっしりと刻まれていた。読んではみたが、見たこともない字でほとんど判読できなかった。一応写真に収め、後で読もうと思ったが、写真で見ても分からなかった。(この時の写真は、家内が生前子供の成長記録をまとめようと、集めていた写真の束の中にあるはずだが、その数があり過ぎて、日々の仕事と、その他の整理で、簡単には見つかりそうもない。とりあえず、この文を完成させてから、ゆっくり探し、あれば、ここに載せようと思っている。)

頂上はまだ先なので、そこを後にして、歩きはじめて気づいた。さっきまでしていた犬の鳴き声がしない。どこかへ行ってしまったようだった。ホッとしたのと、寂しいのと妙な気持ちだ。さらに歩いていると、左からの道と合流した。もし犬の声を避けて、左に行ったら、さきの場所とは出会えなかったな、と思った。二匹の犬が導いてくれたようだった。

そして、とうとう頂上と思われる、開けた場所に着いた。霊畤の文字の刻まれた、およそ膝くらいの三角形の石碑を確認するとほぼ同時に、林が騒ぎ出した。先にも書いたが、一陣の風とともに木々が揺れて、騒ぐのである。すでに書いてきた体験は、この後の不思議体験である。この時が、初めての体験なので、恐れ多くなり、来てはいけないところに来てしまったと思った。跪いて合掌していた。

以上が45年前に体験したことだが、その三箇所で、もう一度来ますと、心に誓ったことなので、いつか奈良を訪れ、供物と酒を捧げようと決めていたが、難病を病む家内の介護があって、訪れることは叶わなかった。その家内も2年前に亡くなり、子供も独立し、独居老人のお仲間になれたが、コロナ騒動で、訪れるチャンスはなかなか巡ってこなかった。

そんな折の、誘いなので、昨年の10月25、6、7日の二泊三日の予定を組んだ。行くべき場所は、すでに述べた三箇所である。民泊の宿は大和八木にある。不思議体験三箇所のど真ん中にあると言って良い場所だった。まるで仕組まれていたようだった。

供物は、新潟のコシヒカリの新米、スルメ、塩、酒は二合瓶で八海山を用意した。1日目は吉野の後醍醐天皇の御陵、2日目の午前中に多武峰の藤原鎌足公の御陵を訪れ、用意したものを献上し祈りを捧げた。また、不思議な現象は起こるかなと、わずかな期待があったが、二つの場所では何事もなかった。

26日の午後、鳥見山の等弥神社を訪れた。昔は見捨てられたような神社だったが、今は参拝客も多いのか、登山の為の無料貸し出しの六角棒や、土産物なども売っていて、地域の人々の参加する催しもあり、賑わっているようなので安心した。

神社の社殿に立って、右を見ると、かって迷い込んだ道があるはずなのだが無かった。川はあるが、両側をしっかりコンクリートで固められて、まっすぐに流れていた。45年の歳月が感じられた。さて、右の道を歩こうとすると、ここにも変化はあった。平坦な道はなくなって、赤い鳥居があり、参道は階段を登るようになっていた。当時、このような作りになっていれば、迷うことなく、こっちを選んだと思う。

その階段を登り、山道を歩いているのだが、二股に分かれた道がない。展望台はどこに行ったのだろう?、探しながら歩いていると、50センチほどの高さの登る小道を見つけたので、そこを登ると、かっては展望台になっていたであろう場所に出た。しかし、杉の木が視界を覆い、大和三山を見ることはできなくなっていた。石碑はあったが、『見わたせば 大和国原ひとめにて 鳥見のゆ庭の 跡ぞしるけき』と書かれていた。

歌の文面から、ここが、かって大和三山をワンショットで撮った場所だと知れるが、和歌で、しかも現代の人が歌った歌である。ひらがながあるから、背丈の2倍ある漢字のビッシリと彫られた石碑ではない。では、あの石碑はどこに? この旅の大きな目的は、その石碑に書かれた漢文を読んで見ることだった。読めなくても、せめて何を表そうとしたのかを知りたかったのだが、その石碑がないのである。

ネットで探していた時に、ようとして見つからないので、現地を訪れば分かると思っていたが、これはどうしたことだ?

まだ先に歩いて行けば、あるのかもしれないと思い、歩き続けていたら、山頂に着いてしまった。霊時の石碑がそこにあった。間違いなさそうだが、記憶と全く違う。あの時、霊時と書かれた石碑は、こんな長い形では無かった。もっと底辺のひろい、堂々とした三角形だった気がする。霊時の文字も、こちらは草書のようだが、私の見たのは隷書のような文字で、くづしは無かったように思う。

その石碑が置かれている敷地の広さも違う。かった見た時は、もっと広く、100人ぐらい優に並べる広さがあった。ここでは10人ぐらいが関の山だろう。供物を捧げる儀式には神武天皇一人で行われたのだろうか?様々な文官、武官を従えての祭りを行うには、狭いような気がする。もっとも、新嘗祭は天皇陛下お一人でなされるそうだから、狭くても良いのかもしれないが、いずれにせよ、かって私が見たものとは、全然違っているのだ。

これは、いったいどうしたことだ?。狐につままれた? わけがわからなくなったが、とりあえず、持ってきた供物とお酒を供え、祈りを捧げた。それを終えて、山道を下り帰路に着いたが、下り終わるあたりで、下からおばあさんが登ってきた。挨拶したら、声をかけられたので、少し話をした。

なんでも、83歳になって、足腰が衰えてきたので、少しずつ上り下りして鍛えているそうである。「小学生の時はこの山の隅々までを駆けずり回って遊んでいたのに、今は、やっとの思いでここまで来るのですよ」。というので質問してみた。83歳なら11歳私より年上だから、私が27歳の時にはおばあさんは38歳。

当時を十分知っていると思って、「私の背丈の2倍ある石碑はありませんか?」と聞いてみた。キョトンとして答えられた答えが「そんなのありません」ということだった。「では二匹の大きな犬は?」いくらなんでもあんな大きな犬が野犬のように山を駆けずり回っていれば記憶しているはづである。しかし「そんな犬はいません」という答え。

混乱してきた。社務所をおとづれ宮司さんに同じ質問をしてみた。私は50年前からここにいるが、見たことも聞いたこともないとのことだった。では、私は45年前、白昼夢を見ていたことになる。

これが昨年私が体験した不思議な旅の物語である。私の不思議な旅は、これで終わったが、これからはトランプ大統領に連れて行ってもらえそうである。期待にワクワクしている。






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