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戦争をせざるを得なかった、負けてよかった
2015/08/10(Mon)

戦争をせざるを得なかった

敗戦後70年の夏が来る。昭和23年、戦後生まれの私が、私なりに、かの戦争について考えてみようと思った。すぐる大戦で散華された方々のことを思うと心が痛み、不遜な表現とは思うが、あえてこのタイトルを選んだ。読んでいただければ、私の真意はわかると思う。

なぜ、このように思ったか。私は身体均整法という整体の技術を使って30年ほど生計を立てている。この技術の創始者は故亀井進先生である。その亀井先生が整体業を営む以前、戦前は、関東軍参謀で満州国建設の立役者である石原莞爾を師と仰ぎ、その下で働いていた。

http://home.kinsei.net/kinsei/syourinnji.html

したがって私は孫弟子と言えるだろう。ならば、私にとって爺さんともなる師はどんな人だったのか興味がわいた。そこで、石原莞爾の代表的な著作、『世界最終戦論』を読んでみた。実は、かの大戦を考えてみようと思ったきっかけは、この書を読んだからである。

要約すると

・戦争には、決戦戦争と持久戦争がある。これからくる戦争は(書かれたのは昭和15年)決戦戦争で、これが最終戦争となる。
・白人至上主義と有色人種蔑視の体制をくつがえし、万民平等の世を実現するための最後の戦いである。
・東洋文明の雄である日本と、西洋文明の雄であるアメリカが争うことになり、勝者に日本がならなけらばならない。
・そのために満州国を建国し、ここに五族協和の万民平等の王道楽土の理想郷を築き、アメリカに匹敵する経済力を育て(大東亜共栄圏の確立)、その力を持って20年後(昭和35年頃)に、アメリカと最終戦争をおこなう。
・この戦が終わると、永遠に戦争のない万民平等の世界が出現する。

というものである。今ここで、この論文の根拠のあるなし、夢物語とかの評価を論ずるつもりはない。ここに書かれた内容だけ検討する。

全てがこの計画通りに動いたとして、すなわち昭和16年に大東亜戦争がはじまらず、満州国の運営がうまくいって、20年後にアジアの一角に、アメリカと肩を並べる強大な経済、消費国家が生まれたとしたら、しかし、それではアメリカと戦争などできなくなってしまう。

なぜなら、この論文の書かれた5年後には原子爆弾ができてしまうからである。

幸運が重なりアメリカとともに日本も原爆を持てたとしたも、なおさら最終戦争という熱戦(hot war = 実際に撃ち合う戦争)を起こすことなどできなくなる。
起こせば、その強大な破壊力ゆえに、両者がとも倒れとなってしまうからである。核の抑止力がはたらき世界最終戦争などできなくなってしまうのだ。最終兵器の出現により世界は戦争ができなくなると、石原莞爾は予言したが、20年を待たず、わずか5年で実現してしまったのだ。

現実の歴史をみれば、原爆が出来てしまった結果、世界は冷戦(Cold War)の時代に突入し、陰にこもった、醜怪な戦の場となってしまった。米ソの冷戦が物語る通り、その後のベトナム戦争に代表されるような、大国のエゴに振り回される代理戦争がアジアの国々で行われるようになった。

石原莞爾のいうとおりに満州国の運営が順調にいき、日本が生き残っていたら、おそらく、世界は米ソ日の三つ巴の勢力が陰惨にぶつかり合い、その間で無辜の人々が苦しむことになるだろう。

また、もし、この時、もし日本の原爆の開発が、数年アメリカより遅れることになれば、日本は理不尽な「ハルノート」を突きつけられたように、挑発された戦争に巻き込まれ、日本が負けることは必至となる。
《『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』とは、極東国際軍事裁判でインド代表判事、パール博士の言葉である。

いずれにせよ、20年後ということを想定したのならば、最終戦争を起こせない。したがって、その目的とする大東亜の解放は行われず、西洋諸国の有色人種への植民地支配は続くこととなり、アジアの解放など絵空事に終わってしまうだろう。

では、対米戦争は必要なかったのか。否であると私は思う。白人、西洋勢力中、最大の軍事力を持ち、最強の存在のアメリカと戦う必要はあったと思う。このことは歴史の必然ではなかったかと思っている。不可抗力である。ハンチントンやトインビーは認めないかもしれ無いが、これは文明の衝突なのだ。

アメリカと戦わず、挑発にものらなければ、満州国は栄え、大東亜共栄圏が実現し、アメリカに匹敵する経済圏が生まれただろうか?。
そのきわめて薄い可能性はあるかもしれない。だが、中国、朝鮮、他アジア諸国の日本への反発も相当なものになるのではないか。アジアの独立よりも、日本への反日の方が大きくなり、それを米ソが後押し、それを抑えるべく民衆の弾圧繰り返しことになり、本来の目的を見失うことになりはしないか。

あるいは満州を放棄し日本のみが白人勢力とともにアジアの一角で栄えることはできるかもしれない。だが、それではアジアやアフリカは解放はどうなる?。その解放は50年、ことによると100年は待たなければならないのではないか。

『十九世紀の西欧においては、白人民族同士の戦乱状態が常習的に行われており・・東方を望めば、瓦解した諸帝国が、トルコから中国にいたるまでアジアの全大陸にその残骸をならべていて・・いたるところの原住民らは、羊のごとく従順にその毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。敢えて反抗しようとはしなかったのである。日本人だけが全く違った反応を示した。しかし、日本人はきわめて珍しい除外例であり、かえって原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ(トインビー)』

この状態を日本は座視できるかどうか?。多くの日本人には到底耐えられなかったのではないかと思う。隣で暴行を受けているものを見て、黙って見過ごせないのと同じだから。もっとも、今日では、暴力はいけないから、手を出してはいけないという人もいるようだが?。最近の日本人は変わってしまったから当時の状態がわからなくなってしまっているようだ。

林房雄の「大東亜戦争肯定論」「緑の日本列島」読むと、この戦いを100年のスパンでみなければならないと言っている。つまり昭和16年の12月8日から20年8月15日の3年8ヶ月の戦いではなく、1853年の黒船の来航から始まり、1945年で終わる、およそ100年の戦争と見るべきだというのである。

徳川260年余の太平の眠りが破られた時、目を世界に転ずれば、インド、中国、ベトナム、カンボジア、朝鮮など、タイを除くアジア諸国が、さらにはアフリカの国々が西洋列強の植民地となっていた。

驚愕すると同時に、その力の源泉を産業革命に見出し、自らも科学技術を振興することにより、その力を得て、国内の革命を成就し、さらにはその勢いをもって、アジア、アフリカでの白禍を防ぐ、これが日本人の魂の底に秘められた思いとなった。

幕末当時の薩摩藩主、名君と言われた島津成彬は「大陸出撃策」という考えを抱いていたという。

『出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。1日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えしめ、日本と連合するときは、英仏といえども恐にるたりない。然るに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を視ること属国の如く、日本より連合を申し出ても耳をかたむけるどころではない。故に、我より出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐを上策となす』

中国に「共に手を携えて西洋列強の侵略を防ごう」と言っても、中国は驕り高ぶっていて、日本のいうことなぞ聞く耳を持たない。仕方がないので、日本から出向いて彼の国の鼻っ柱をへし折り、政治改革のお手伝いをして、その後、改革され刷新された中国と手を携えて、西洋列強に対峙しよう言うことだ。

同じような考えは、藤田東湖、橋本左内などにも見られる。国内の改革が成就すれば、次の同胞アジアの解放と考えるのは自然の成り行きだったろう。総じて言えることはアジアを統一し持って西洋列強に対峙するというものだ。

明治維新は国内の革命を実現することだけではなかったのである。当時の代表的な知識人の考え方だけではない。一般庶民にもその考え方は浸透していた。おそらく日本人のコア・パソナリティーと言うべきものになっていたと林房雄は言っている。私もそう思う。だからこそ、日清、日露、大東亜解放の戦いを、何の矛盾もなく多くの国民が受け入れてのだ。つまり、大東亜戦争はおよそ100年前に計画されて、世代を経て受け継がれて行くうちに潜在化され、いつの間にか無意識的に我々には戦うことが自明の理となっていたのだ。

大東亜戦争の目的は「侵略」だったとわれわれは教わっている。しかし、世界を揺るがした大戦の目的が「侵略するから、この戦いに参加せよ」などという、あほうなスローガンだったと言うのか?。こんなスローガン信じてわれわれの親父たちが戦に馳せ参じたのか。こんなスローガンでは人は動くはずがない。しかし、おかしなことに日本の戦争目的は今日まで「侵略」ということに馴れて、多くの国民が疑っていない。おかしいだろう。

大東亜戦争は西洋列強と、その優たるアメリカとの戦いで、その大戦初期に日本が善戦し、アジア、アフリカの有色人の同胞に自信と希望を与えたということは紛れもない歴史の事実である。石原莞爾の予言通り、白窩を駆逐し、有色人種を解放するためには、日本と欧米列強は戦う必要があった。それが歴史の必然だったと私は思っている。

しかし、その時は、先にあげた理由で石原莞爾のいう20年後(昭和35年ごろ)では無理である。では、その時はいつなら良かったか?。

開戦の時は、いつならば良かったか?

私は昭和16年12月8日が最良の時だったと思うのである。このころを境に、我が国の航空機は機体設計(エンジンなどは遅れていた)の分野で西洋を一頭地凌駕しつつあった。

近代戦は制空権を制したものが勝利すると言われているが、昭和15年は零戦が中国大陸で実戦投入され活躍しだした時期である。初戦は9月12日で13機の零戦で、中国空軍の戦闘機33機と交戦し27機を撃墜した。零戦は一機も失われなかった。

以来、『初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機のみで、空戦による被撃墜機は無いまま、 太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった。

太平洋戦争緒戦
 太平洋戦争緒戦において零戦は、空戦性能において卓越し、グラマンF4Fワイルドキャットなどに対し、1942年8月連合国によるガダルカナル侵攻まで連戦連勝で優勢だった。また、零戦は2200キロの航続距離を持っていたが、当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し帰ってくることは夢物語であった。

 零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力のほとんどを撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって連合軍将兵の心の中に零戦は「無敵」という神話をうえつけた。

 当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは零戦より、速度・上昇力・旋回性能のすべてにおいて劣っていた。

 海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機すなわち83%を占めた。太平洋戦争のはじめの一カ月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65%であった。日本軍の全戦略はこの飛行機の成功にかかっていた。(ウイキペディアー零式艦上戦闘機)』

しかし、こうした初戦の戦果も、日本への侮りと、情報不足からくるもので、軽量化のため防弾装備がない弱点を知られてしまえば、徐々に挽回され、日本に比して10倍の工業力を持つと追われるアメリカが、対戦中期より零戦に倍する2,000馬力級の新鋭機を陸続と開発してくるころには、優位性は完全に失われてしまう。

もし、開戦が昭和17年あるいは18年に伸びたとすると、秘匿された我が国の航空機の情報も明らかになり、対抗策が取られ、真珠湾の勝利、マレー沖の浮沈艦と言われたイギリス東洋艦隊プリンス・オブ・ウェールズ、同レパルスの撃沈などはなかったことになるだろう。

つまり、アメリカと最後の決戦戦争(最終戦争)を行うには、皮肉なことに昭和16年が、彼我の工業力の差が10倍という、この時期がもっとも適していたということになる。

12月8日の開戦について

12月8日については、フジテレビの番組『鶴瓶と南原、日本のよふけ』(確か2002年ごろ)で、瀬島龍三との興味深い話があった紹介しておく。

記憶をたどれば、鶴瓶と南原が瀬島龍三に「あの戦争でアメリカに勝つと思いましたか?」と問いかける。
瀬島は「鶴瓶さん南原さん、戦というものは、今も織田信長のような昔も変わりません。城を取って勝つと言えるのです。アメリカの城はどこですか?」と反対に問いかける。
鶴瓶、南原「ワシントンですか?」
瀬島「そうです。ワシントンを落とせると思いますか?」
鶴瓶、南原「無理でしょう」
瀬島「そうです無理です。支那でさえ攻めあぐんでいるのですから、ワシントンを落とすなどは到底不可能です。日本の工業力の10倍のアメリカを相手にできるなどとは、あの当時の軍人のどんな夢想家も思っていませんでした。
鶴瓶、南原「ではなんで戦争したのですか?」
と悲鳴のような問いかけが続く。

それに瀬島が答える。この後話を要約すると、ABCD包囲網による禁油政策により、日本に一滴の石油も入らなくなった。昭和16年12月8日は備蓄している石油を食いつぶす日であること。石油がなければ、軍艦も飛行機も飛ばせず、兵の訓練など出来ず、軍艦や飛行機や戦車は有っても、中国との戦争に座して負けてしまう。止むに止まれず、座して死を待つより、南方の石油資源確保のために、自衛の戦争をしなければならなかった。といっていた。

こうした背景で戦争が始まってしまったが、石原莞爾は昭和16年に日米開戦は時期尚早であると唱え、官職を辞して野に下り、米国と戦争をする愚を訴えて東条内閣を糾弾した。この運動に我が亀井先生も参加していたが、かく考えてくると、皮肉なことに、日米最終戦争の最良の開始日は20年後ではなく、論文の出された翌年だったのである。




戦争せざるを得なかった、負けてよかった2
2015/08/11(Tue)

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負けて良かった

「負けて良かった」というのは、この大戦の本質はここにあったと思うからである。

大東亜戦争はアジアの解放を目指した戦いである。勿論、表向きのスローガンには違いない。しかし、この言葉を信じ、鼓舞されて我が国民は戦ったのである。裏に経済侵略という目的もあっただろうが、「中国やアジアを侵略するから、この戦に集え」ということを信じて人が動いたのではない。何事にも物事には裏表があるものだ。

アメリカだって同じである。「民主主義を守る」と言うのが表なら、「白い太平洋(白人が支配する太平洋=林房雄)」が裏の目的である。しかし、スローガンが「白人が支配するアジアを作る」では、アメリカ人も兵士となるのを躊躇するだろう。

戦後、日本の『裏』の目的とアメリカの『表』の目的が議論の俎上のるが、これでは噛み合うわけが無いどころか、戦の本質がまったくつかめなくなってしまう。しかし、何の疑念を持たれることも無く、この議論が今日まで続いているのだから、如何なものかと思うしだいである。

話しを戻すと、「負けて良かった」というのは、負けてしまった方が大東亜戦争の目的が達成されたからだ。何故なら、アメリカは「民主主義を守る」ため日本と戦ったのだから、その民主主義をアジアに実現しなければならなくなる。そうでなければ大義名分が立たない。

もし、「白人支配の太平洋」を実現しようとすれば、我が国の言い分の方が正しかったことになってしまう。再び戦前のように、アジアを植民地支配しようとすれば、それではアメリカ国民も納得しないだろう。まことに皮肉なことに『表』のスローガンの為に『裏』の目的を実現できなくなってしまった。

良く日本は戦術はあるが戦略がないといわれる。しかし、とんでもない。負けて勝つという高度な戦略になっていたのだ。意図してなかったことが難点だが。

日本がアメリカに勝つ?

もし、日本がこの戦いに勝っていたらどうなったであろうか。最も、アメリカと戦って勝つということはあり得ないので、日本が勝っている間に、早期和平に持ち込むということになる。これは山本五十六の考えであった。日露戦争と同じだ。

陸軍が主張する、昭和15年に締結された日独伊三国同盟に、山本をはじめ海軍は反対していた。陸軍では石原莞爾らも反対していたが、それを結べばアメリカが日本に対し禁油措置をとり、石油が入ってこなくなる。それでは戦車、戦艦、航空機は無用の長物と化し、すでに中国と戦争中の日本は負けてしまう。満州国の放棄にも繋がりかけない。さらに対米戦争は必至となり、工業力格差が10倍のアメリカと戦えば、必ず負ける、というのがその主な主張である。果たして現実の歴史はそうなってしまった。

事ここに至り、苦肉の策として、山本五十六は真珠湾攻撃から始まる、南方資源確保の戦を画策する。ただ、それは資源確保もあったが、一年か一年半、日本優位の内に戦いを進め、アメリカ国民の厭戦気分を誘い、優位の内に和平に持ち込み、禁油措置を撤回させる。その条件として満州以外の中国及び東南アジアの全ての占領地を放棄するというものだった。

これに対し、アメリカ国民が真珠湾のだまし討ち(山本五十六の願いとは裏腹に外務省の失態に因り開戦通告が一時間半遅れた)を赦して矛を収めてくれるかどうか、はなはだ心許ない事ではあるが、一縷の望みはあったかもしれない。

ただ、そうなってしまった場合、占領したところを全部返してしまうのだから、アジアは再び白人の手に戻ることになる。これでは大東亜開放の目的は達成されない。

また、日本の世論が 弱腰だと納得もしまい。また数年も経てば、アメリカに勝ったということで、天狗となり軍国主義の様相はより濃厚となるだろう。さらには今度は日本がアジアを劣等と見下すことになりかねない。

日本が負けたからこそ、慎み深く、思いやりのある日本人の良い方の性向が優位に立ったのであり、山本の構想どうりに動けば、日本人のもつ劣悪な性向が優位に立ってしまう恐れが多分にある。

したがって、日本が負けた方が、アメリカの核の傘の元の平和とはいえ、アメリカのポチに落ちたとはいえ、70年にわたる平和を享受でき、その間、科学技術を振興できたのだから返って良かったといえる。日本人としての誇りを失ったのが難点だが。

また、戦闘は昭和20年8月15日に終わらねば成らなかった。

何故なら8月9日には、日ソ中立条約(昭和16年成立、有効期間5年)を一方的に破り満州国に進攻してきたからだ。この条約のおかげでソ連は対ドイツ戦いおいて兵力を西側に集中させることが出来た。もし日本が東より参戦したならばソ連は兵力を二分することになり、スターリングラードまで迫ったドイツ軍を撃退できなかったかもしれないのだ。日本により、きわどいところを助けられたのにも関わらず、ヨーロッパにドイツの脅威がなくなると、条約などあるものか、その矛先を日本に向けてきた。日本国憲法前文に謳われる、『他国の公正と信義』などあったものではない。

さらに驚くべきは、日本が8月15日に武装解除し無条件降伏をしているにも関わらず、8月18日には、カムチャッカ半島の南端、千島列島北端に位置すの占守(しむしゅ)島に8300余名の兵を急襲上陸させてきた。占守島では陸軍第91師団が、武装解除していたが急遽再武装して応戦し、ソ連軍に多大な損害を与え侵攻を食い止めた。戦火がやんだのは21日になってからだった。

また唯一、日本国土で国境線のあった樺太でも8月15日以降も以降も戦闘は続いていた。8月11日、国境線より侵攻を開始したソ連軍は、8月15日に塔路に、8月20日には樺太南部の真岡に上陸作戦を敢行した。日本軍は武装解除命令のもと、自衛戦闘で逐次抵抗を試み、その侵攻を遅らせた。

特に真岡では、真岡郵便電信局の電話交換手の女性9人の青酸カリ服毒自決の悲劇も生まれた。彼女らは40万人いたとされる島民の速かなる疎開の為に、ソ連軍が迫る中、最後まで電話交換業務を続けたのである。後にこの悲劇は1974年(昭和49年)「氷雪の門」として東宝で映画化されたが、ソ連の圧力により劇場公開を見送られ、幻の映画となってしまった。

思わぬ日本軍の反撃により、スターリンは当初予定していた北海道北部の占領を断念する。もし終戦の決断が8月15日より遅れれば、北海道は、否、遅れれば遅れるほど東北地方までもがソ連領となり、日本はドイツのごとく国を二分されていただろう。したがって、終戦は昭和20年8月15日を1日たりとも伸びてはいけなかったのである。

我が国に天皇制があったことが幸いした。天皇の存在がなければ、和平か交戦かいつまでも議論の決着はつかず、本土に米軍が上陸し、迎え撃つ為に一般市民が竹槍で戦い、衆寡敵せず、ズルズルと負け戦が続き、北海道はソ連の手に墜ちていただろう。まことに際どいところで終戦に持ち込めたというほかない。

太平洋の各戦線では、齟齬が連続し、神に見放されたような印象を受けるが、終戦間際には、際どいところで神に救われた印象を受けるのである。

そのように考えてみると昭和二十年八月十五日の敗戦はまことにタイムリーだったというほかないと思うが如何だろうか?。

以上、石原莞爾の説に従って最終戦争を考えてみたが、開戦は昭和16年12月8日でなければならず、終戦は昭和20年8月15日を伸びることがあってはならない。この日時が、戦うにしても、負けるにしても最良の日であったということだ。始めるのも終わるのもこれで良かったのだ。

聖戦という言葉がある。人の殺し合いに聖(ひじり)などあるものか、と思うのだが、大東亜戦争とは、どう転んでも戦わざるを得なかった戦である。歴史の必然の戦と言える。この戦により、人類の進化が、今一歩おし進められたのだ。

私が小学生の頃、日教組の先生だったのだろうか、「あの戦いに参加した兵士は犬死だ」と教えられた。とんでもない話だ。参戦された方々は責務を果たしたのである。

最後に浅野晃氏の詩集、天と海、英霊に捧げる七十二章より、「アジアの岸の歌」(66〜72章)を、項を改めて掲載させていただく。この詩は、三島由紀夫により朗読され、山本直純により作曲され、詩と朗読と音楽が一体になった、ポエムジカと呼ばれる新しい形式をとっている。

この詩はこの戦いの本質を見事に歌い上げていると思う。三島由紀夫はそれを日本民族の叙事詩であるといった。興味がある方には是非とも全てを読んでいただきたい。三島由紀夫の朗読も是非とも聴いていただきたいものと思っている。

最後に、この戦いに散華された300万余の方々、さらにはこの戦に巻き込まれ命を終わることを余儀なくされたアジア諸国の方々、また敵国として戦い戦死された方々のご冥福を謹んでお祈りいたします。また、傷病された方々のご多幸をお祈りいたします。
瞑目、合掌。




天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
2015/08/12(Wed)

天と海 英霊に捧げる七十二章(抜粋)
 浅野晃  朗読 三島由紀夫 作曲・指揮 山本直純

30
ながいながい夜だった
彼らは耳を傾けてゐた
じつにいろいろの声が
語りかけて来たから
父なる声
母なる声
姉なる声
師なる声
友なる声
逝いて遠い友の声さへ
かれらは見たのだ
めいめいの持場にあって
美しい形を
まだ生まれない前に見た
数々の美しい形を
見たのだ
責務といふ名のもとに

66 アジアの岸の歌

曾て不毛の河辺に
寝ずの番してゐた彼らであった

天のどんな予兆も聞きのがすまゐと
全身を耳にしてゐた彼らであった

影に充ちた夜であった
草はやはらかく幼子のように
眠ってゐた
君たちもどこか草のように幼子めいて
見えていた

満点の星は身をふるわせて
縛されたされた女性を凝視してゐた
アジアという名の漠たる女性は
漠たる永い夜に縛されてゐた

あの刻 彼らの耳は
何をきいたのか

さかしらな人間があやつる舞台が音たてて
廻っただけなのか けれど
そんなことが 君らの願ひと
何のかかはりがある

君たちは装いを改めた
争って祖国の急に赴いた

花のような羞ぢらひのなかに
五月の夜よりもかぐはしく

やさしい思い出とも別れ
答えなき天に
おのれの影を投げながら

ひとり世を超え
おそれもなく
ためらいもなく

意味ありげなものの虚妄を
悪しく意味づけられたものの虚妄を
はげしく拒み また拒み

人みなが冷たしと見る
アジアの岸の夜明け前に
虚妄の意味を焼きつくし
おのれひとつの焔を燃えて

おそれもなく
ためらひもなく
花のような羞ぢらひのなかに
五月の夜よりもかぐはしく

聖なる戦いの真実を
おのれひとつに証(あかし)しして
闇の汐にの呑まれていった

君ら運命を超えて逝ったものよ
いまこそ 魂を鎮めるとき

67
われらが尽きぬ夏の日は
青い海が白い船を逝かせ
渚に光あふれ
瞳燃え
いかに永い別離が
われらを捉え
はるかな夜にさまよわせようとも
いつもここで
わたしらは出会ふ
生きるかぎり のちの世までも

68
ミンドロの岬から
シブヤンの水道から
スリガオの海峡から
デナガットの海から
ミンダナオの海から
サン・ベルナルデイノの迫門(せと)から
パラワンの島から
スルアンの島から
エンガノの沖から
サマールの沖から
レイテの沖から
サイパンの島から
テニヤンの島から
グアムの島から
アンガウルの海から
ハルマヘラの海から
パラオの島から
ヤップの島から
トラックの島から
ルオットの島から
クェゼリンの島から
タラワの島から
マキンの島から
ペリリューの沖から
モロタイの沖から
ビアクの島から
ニユーギニアの岸から
ブーゲンヴィルの島から
ソロモンの海域から
ツラギの島から
ガダルカナルの島から
ルンガの泊地から
ミッドウェイの海から
アッツの島から
帰って来い
帰って来い
帰って来い

69
赤道の秋
ひややかにうねりを返す浪の背に
祖国の声が 青い天から
呼んでゐる
捧げた君らの
尊い名を

70
静謐で清淨な空間を充たす
無尽の光
このひたすらな挺身者
時は いま 重い足どりで
歩いている
偽りの歴史を
じっくりと溶かすべく

71
すべては逝く
知つてゐたその人も逝く
録されたすべては亡びる
けれど記憶は殘る
けれど天は忘れない
すこやかにありし日のまま

72
死を超へて
なほも多くの日付がある

天と海 (完)


天と海

昭和40年(1965) 浅野晃 「天と海 英霊に捧げる七十二章」出版
昭和42年(1967) 三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化

『「天と海」の主部は、スンダ海峡を漂流しながら見たバタビヤ沖の海戦の強烈な印象が元になっている。輸送船団はみな錨をおろし、上陸ははじまっていた。その時私らの佐倉丸は、魚雷二発をうけて沈没したのであった。
 終戦とともに私どもは北海道にのがれ、勇払(ゆうふつ)の曠野に五年住んだが、その間、思いは多くの戦いの終始、わけても若くして国に殉じたおびただしい英霊の上に走った。自然、「天と海」は、北の曠野にあって、遠く南溟を思う格好になった。私はこの一作に微力を尽くした。戦後20年を便々と生き存えた罪も、これで幾分かは償われたような気さえした。………「謝辞」より』

『「天と海」は、叙情詩であると共に叙事詩であり、一人の詩人作品であると共に国民的作品であり、近代史であると共に万葉集にもただちにつながる古典詩であり、その感動の巨大さ、慟哭の深さは、ギリシャ悲劇、たとえば、アイスキュロスの「ペルシャ人」に匹敵する。この七十二章を読み返すごとに、私の胸には、大洋のやうな感動が迫り、国が敗れたことの痛恨と悲しみがひたひたと押しよせてくる。浅野晃氏は、日本の詩人として最大の「責務」を果たしたのである。………三島由紀夫』




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