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jingyu blog
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鍾馗考 その1
2016/04/03(Sun)
私の趣味はフライトシミュレータで遊ぶことです。使っているフライトシムソフトはX−PlaneとIL−2ですが、X−Planeは平和の翼、IL−2は戦いの翼といったところでしょうか。
X−Planeはアメリカ連邦航空局(FAA)の飛行訓練用のシミュレーションソフトとして認められているもので、私はこれでバーチャル飛行免許を取ってやろうと訓練に励んでいます?。IL−2は第二次大戦が舞台のコンバットフライトシミュレーションゲームです。これで空中戦をたのしんでます。
このブログで、それらをご紹介しようと思っていたのですが、あれこれあって手が回らずのびのびになっていました。今回は、その重い腰をあげ、私の大好きな機体、陸軍二式単座戦闘機「キ44、鍾馗」を紹介してみたいと思います。
写真はX-Planeで飛ばしている鍾馗です。(平和の翼でも軍用機は飛びます)
写真1は調布飛行場上空1万メートルです。爆撃機のエンジンを積んだ大きな頭部と短い翼(翼面荷重が高い)が特長です。(真下に調布飛行場と味の素スタジアム、後方は多摩川)
写真2は、高度、位置は同じで、東京湾が望めます。向こうが房総半島、三浦半島も見えます。
写真3 1万メートルでは雲は下の方にあります。B29はこの高度で侵入し東京に爆弾を落として行きました。零戦や隼がここまで登ることは容易ではありません。鍾馗の大きく、大馬力のエンジンでかろうじて可能になります。
零戦や隼に名声に隠れて鍾馗はあまり目立ちませんが、これは大変な名機なのです。日本の宇宙開発、ロケット開発の父と言われた糸川英夫博士が若い頃、設計に携わりました。名だたる陸軍戦闘機「隼の」の設計も行いました。それで、2010年、宇宙探査機はやぶさが小惑星イトカワを訪れ、サンプルリターンを成功させましたが「はやぶさ」「イトカワ」の名前の由来はここから来ています。
その糸川博士が、『一式戦「隼」は時宜を得て有名だが、自分の最高傑作だと思っているのは、その次に設計した「鍾馗」である』と言っています。
また、戦後、日本陸海軍の軍用機を調査した米海軍航空情報部(TAIC)は、『急降下性能と上昇力が傑出(Excellent)し、インターセプター(迎撃戦闘機)として、もっとも適切(Suitable)な機体』と言ってます。
鍾馗はもっと見直されてよい機体なのです。
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鍾馗考 その2
2016/04/04(Mon)
IL-2(コンバットフライトシム)で、鍾馗を駆って列強の主な戦闘機と空中戦を行ってみました。その結果を動画にしてYouTubeにアップしました。
鍾馗対P38 双同の悪魔と恐れられたP38との空中戦。 https://youtu.be/i-R8asCFYJA
鍾馗対スピットファイアー さすが旋回戦に強いスピットファイアーです。なかなか勝てません。 https://youtu.be/fSsXGhZ2p_c
鍾馗対F4U(コルセア) 鍾馗は右エルロンを失った状態で戦い健闘しましたが、しかし最後は残念なことに……… https://youtu.be/R_jhFHiBqZQ
再びF4Uコルセアと対決。ついでにF4Fとも。 F4Uコルセアにリベンジ。ついでにF4Fもやっつけちゃいます。(;゚д゚)ァ…. https://youtu.be/QZELApGLLqE
鍾馗対零戦キラーのF6F。どちらの機体もコンピュータが操縦します。 なので性能の良い方に分があります。また、見てるだけなのでお気楽です。 https://youtu.be/D88ht7QrErM
最強の名機といわれるP51との対戦。 層流翼はもろかった? https://youtu.be/5B2_RTrZ1aw
と、いろいろ試しました。その感想は、ひとことで言えばパワフルの一言につきます。日本機らしからぬ強力さに加えて、運動性も旋回性能も蝶型フラップを効果的に使えば、アメリカ機などより良さそうな感じです。この感想は鍾馗に当時下された「重い、旋回戦に不向き、着陸が困難」などの評価とは程遠いものになりました。IL-2というフライトシムを通じて、私は鍾馗は零戦、隼よりも名機だと思うようになりました。鍾馗はもっと大きく評価されるべきです。
もっとも、このシムはロシア製なので、アメリカ機は若干弱く、ヨーロッパは強いように、プログラムが設定されている気がしないでもない。そんなことから現実を正しく反映しているかどうか疑わしいのですが、それでも零戦や隼という軽戦(軽く造られ旋回戦に優れる)に分類される戦闘機と違い、鍾馗は重戦(パワーと防弾を主眼に一撃離脱の攻撃を得意とする)の特徴を如何なく発揮してくれました。それは実際の鍾馗に下された評価と一致しています。
しかし、その高性能な割には、歴史上、実際の戦場では、鍾馗はあまり活躍していません。零戦や隼と同時期の1942年に実戦配備されていたのに、大東亜戦争の初戦において活躍する場面はほとんどないのです。製造数も1,200機弱と、零戦の1万機、隼の5,000機と比べて、開戦当初から造られていたにしては少ないのです。名機ならばもっと造られて良いはずです。鍾馗は大戦末期に出てきて日本機を大いに悩ませた2,000馬力級の先進的な戦闘機とも互角に渡り合える性能があるに、これはどうしたことなのでしょうか。
調べてみると、その理由は、航続力が3,000キロを越す零戦や隼と比べて、鍾馗は1,500〜1,600キロ(落下タンク使用)と、短いことが原因でした。
しかし、これはおかしい。ヨーロッパ戦線で戦っていたスピットファイアやメッサーシュミットの航続距離は多くても900キロ前後です。鍾馗の方が1.5倍以上も飛ぶことができます。また、日本軍機が大戦初期にもっともよく戦った、米軍のF4Fは1,300キロを少し超えるくらいです。鍾馗の方が長く飛べます。F6Fは1,520〜2,500キロですから、欧米の戦闘機と比べて航続力において遜色はないのです。したがって、もっと活躍できたはずなのですが、現実ははそうなっていません。これはどうしたことなのか、このように考えていたら、あることに気がつきました。
日頃、我々が慣れ親しんでいる、地図の表記法は、メルカルト図法といって、いわば地球儀を円筒状に見立てて表記された地図です。したがって赤道の幅でヨーロッパ大陸を見ていています。我々はこれに慣れているために、なんの疑問も感じてはいません。しかし、地球は球体だから南北の極に近づくほど実際の距離は狭くならなければならないのです。ヨーロッパ大陸は我々が地図で見ているより狭いのです。
1940年、ドイツ空軍とイギリス空軍の間で行われた大空中戦(バトル・オブ・ブリテン)で戦われた距離は、ロンドンとパリ間の340キロ程度です。東京から京都までの370キロの方が遠いのです。たったこれだけの距離なのに、ロンドンまでいって戦ったメッサーシュミットの何割かは燃料が尽きて基地まで帰ってこられずにドーバ海峡の冷たい水の中に沈みました。
また、連合軍とドイツ、双方の爆撃機が飛んだロンドンとベルリン間は940キロで、東京から鹿児島までの966キロより少ないのです。にもかかわらず、護衛戦闘機が飛べないため、護衛を伴わないで飛んでいたB17(爆撃機)はよく落とされました。ちなみに零戦が飛んだラバウルからガダルカナル島までは1,065キロです。
さらに、東部戦線では、ドイツはソ連のスターリングラードまで兵を進めますが、戦線が伸びきったため補給を続けられず破れました。そのベルリンからスターリングラードまでの距離は1,330キロ程度です。東京から沖縄までの1,560キロですから、ドイツは日本列島の半分程の距離でさえ補給を続けられなかったということになります。逆に言えば日本列島の距離での補給は困難を極めるということになりますね。北の北海道、網走市から南の鹿児島県、枕崎市までは1,870キロなのですから。
日本は、南はインドネシアやニューギニア、北はキスカ島やアッツ島のあるアリューシャン列島を作戦範囲としていました。ニューギニアの激戦地ラバウルまでは東京から4,623キロ。アリューシャン列島のアッツ島やキスカ島までは3,500キロ。
我が国は、およそ8,000キロを超える地域を作戦範囲としなければならなかったのです。この距離は北京からベルリンまでが7,370キロ程度ですから、陸上にしたらアジア大陸のみならずヨーロッパ全土を支配したに等しい距離になります。距離だけで考えれば、歴史上のどんな大帝国も支配したことない地域を一時期でも支配していたことになります。日本の陸海軍部はおそらくドイツが支配した地域の10倍を超える面積で作戦を立てなければならなかったはずです。
サイパン島が落ちてB29が東京を爆撃し始めましたが、東京とサイパン島の距離は2,360キロ。B29の航続距離6,600キロ(爆弾搭載時)があって初めて可能になりました。ベルリンを爆撃したB17の航続距離は3,200キロ(爆弾搭載時)ですから、B17では日本本土の爆撃など不可能だったことになります。
こういうことを考えると、ゼロ戦や隼の3,000キロを超える航続力が如何に必要とされていたかがわかります。確かに鍾馗の活躍できる距離ではなかったのです。
『 ヨーロッパと太平洋戦線では、戦場の広さや事情が全く異なっている。その点で、陸軍は選択を誤ることなく、太平洋戦争の主力戦闘機に隼を選んだ。中島は、隼の潜在能力である3,000キロを超える長大な航続力を引き出し、さらに武装の強化と蝶型空戦フラップの採用で軽快な運動性を兼備した戦闘機を完成させた。…………… 緒戦における隼の活躍には、次のようなものがある。 第一に、長大な航続力を駆使してマレー半島上陸部隊輸送船団の護衛任務を果たし、ついで、マレー、フィリピンなどの極東地域の英米航空戦力役300機以上を、零戦、97戦、鍾馗などとともに開戦大一日目に殲滅して、海軍が強行出撃してきた英東洋艦隊をマレー沖海域において撃滅するのに貢献した。 続いて二ヶ月の後、オランダ領スマトラのパレンバン製油所奇襲にあたっては、海軍機と強力して陸軍の空挺作戦を援護し、さらにはビルマ方面の英空軍を撃砕するなど、縦横無尽の活躍をしている。 このような作戦は、メッサーシュミットや鍾馗のようなスピードはあっても航続力の短い戦闘機では無理な相談で、隼を主力戦闘機としたことは正しい選択であった。(中島戦闘機設計者の回想:青木邦弘著)』
ということで、距離こそが、鍾馗を第一線で活躍させ得なかった原因のようです。しかし、第二次大戦、わけても大東亜戦争(太平洋戦争ではありません、これはアメリカが言うことで、日本は大東亜の解放を目指して戦ったのですから)において、この距離を考慮に入れ考察された論調は無いといってよいでしょう。零戦や隼は航続距離が長かったとは聞きますが、それが何故なのか、欧州の作戦とどのように違うのか、には誰もそれに答えてはこなかったように思います。わずかに青木邦弘氏の論調にそれを見いだすのみです。戦史をこの距離という観点から、もう一度見直す必要があると思います。
日本軍機の防弾思想について
それを見直すということで、日本軍機の防弾について考えてみます。
零戦に防弾装備がないことで、零戦の強さの秘密を暴こうとして躍起になっていた、米軍の調査チームが驚いたようですが、私は当初、この防弾せずは「武士道というは死ぬことと見つけたり」という葉隠に連なる日本人独特の思想だと思っていました。よく言えば死を恐れない、悪く言えば命を粗末にあつかうことになりますが、日本人ゆえの感性からくるものと思っていました。
しかし、実際は、陸軍戦闘機で防弾のないのは一式戦の隼の1型のみで、2型、3型となるにつれて防弾は強化されていったようです。隼(キ43)と同時にできた二式戦の鍾馗(キ44)には開発当初から防弾はしっかりと考慮されていました。三式戦の飛燕、四式戦の疾風、五式戦は言わずもがなです。したがって戦闘機に防弾を施さなかったのは海軍だけのようなのです。
海軍は零戦に防弾をつけなかったのみならず、爆撃機の一式陸攻などにもつけてはいません。だから米軍からワンショットライターなどと揶揄されました。爆撃機は動きが鈍く、戦闘機のように機敏に動いて射弾を回避することができません。打たれることが宿命のような機体なのですから、防弾をつけないのは愚の骨頂と言わねばなりません。
しかし、距離ということを考慮にいれて考えてみますと、海軍機は陸軍機と違い、洋上を飛ぶことを主とします。陸上を飛べば、燃料が尽きても不時着すれば生き延びられる可能性が十分にあります。しかし海上ではそうはいかない。海に落ちればそのまま死につながるでしょう。わずかでも燃料があり、その分飛ぶことができれば、どこかの島にたどり着けるかも知れません。パイロットの命は一滴の燃料に左右されると言えるでしょう。したがって防弾をする余地があれば、その分燃料を積もうと考えるのが人情というものかもしれないと思うようになりました。
防弾か航続力(燃料)か、お前ならどちらを選ぶ?、と問われれば、私も燃料の方を選ぶと思います。ですから海というものの恐ろしさが、海軍の作戦の潜在的なプレッシャーなっていたのではないでしょうか。だから無意識的に航続力を優先させてしまったように思います。防弾を優先させ得なかった、一番の理由は、今まで言われていた人命軽視の傾向より、日本軍が占領した、あまり長すぎる「距離」だったと言えるのではないでしょうか。
以上、鍾馗を飛ばして思ったことを書いてみました。それにしても、この距離を考えると、しなければならなかった戦(いくさ)とは言え、日本は、なんとも無茶苦茶な戦いをしていたものだと、つくずく思う次第です。
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