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米国大統領選挙に思う
2020/12/01(Tue)
善と悪が戦えば善は負ける。 何故なら、悪は卑劣な手段を使えて、その制限がない。無限といっても良いだろう。しかし、善は善ゆえに、卑劣な手段は使えない。従って使える手段は限られる。 だから、善と悪が戦えば、取るべき手段が無限にある悪が勝つ。
しかし、物事は二値の間の単純な関係では成り立たない。多くの要素を加える必要があるが、あまり多いと解りづらいので、一つの要素だけを加えてみる。すなわち善でも悪でもない第三の要素、人民である。
中里介山作、大菩薩峠、農奴の巻で、お銀さんと駒井甚三郎はそれぞれの方法で理想の共同体を作ろうとする。その中で、その共同体に参加する人々を、次のように分類している。
A 5% 理想に共鳴、真剣の同志 B 15% 上記に共鳴する準同志 C 60% 理想に無頓着、好奇心から参加、失望すると翻意する D 15% 食い詰め者、陰口を叩き、怠けて空きあらばサボる E 5% スパイ又は体制に反対する者。自利を優先する
この分類は底本を筆者意訳したものだが、この「農奴の巻」が書かれたのが1940〜41年ごろ、昭和でいえば15年か16年。日本が対米戦争を始める年に近い。
また、筆者の中里介山は国柱会の食客のような立場で、その定例会に出席していたらしい。その国柱会には満州国建国に携わった石原莞爾がいるから、その定例会で満州国建国の成否の話なども出たはずである。ということから、この割合は、満州国の建国に参加した人びとの動機であったと、と思っていて、当てずっぽうな数値ではないと思っている。
この分類に従えば、善はAB、悪はDE、そのどちらでもない人民がCということになろう。
ここから、悪は善との戦いに勝ったとしても、DEの悪のグループの中だけで自己完結していては、何のうまみもない。強いものが獲物を独り占めにして、下っ端はお零れがもらえるだけである。当然、不満ができて仲間割れが起きる。だから、彼らを満足させるためにも、どうしてもCの人民から富を収奪する必要が出てくる。
そして、ABの善も理想を実現するためにはCの人々の力が必要であり、Cを豊かにすることが善なるものの仕事である。これもABの中だけで完結していては、何の意味もないことになる。
従って、善も悪も、目的を実現するためには、Cの60%の人民の力が必要になる。善は人民からの協力が必要だし、悪は人民からの搾取が必要になる。ここに統治の方法に違いが出てくる。
それが、「シラス」と「ウシハク」である。古事記の中で語られる統治の形態の原理である。シラスは「知らす」が語源であり、ウシハクの「ウシ」主(ヌシ)が語源。「ハク」は刀を佩くのハクである。主人の力による統治ということになるだろう。
このことを考えながら、米国大統領選挙を見て行くと、トランプ大統領は「シラス」を目指し、バイデン大統領候補は「ウシハク」をしようとしているように私には見える。
果たして、米国民は、このどちらを選ぶのだろうか? 是非、「シラス」による統治を選んで欲しいと思っているが、果たしてどうなるのだろうか? 固唾をのんで行方を見守っている。
参考 「古事記 国譲り」に現れた「シラス」と「ウシハク」
ここに天の鳥船(トリフネ)の神を武御雷(タケミカヅチ)に副えて遣(ツカ)わす。ここに以ちてこの二柱の神、出雲の国の伊耶佐(イサナ)の小濱に降り至りて、十掬(トツカ)の剣を抜きて浪の穂に逆さに刺し立てて、その剣の先に趺(アグ)み坐(イ)て、その大国主(オオクニヌシ)の神に問いたまひしく、「天照(アマテ)らす大御神(オオミカミ)高木の神の命(ミコト)もちて問(トイ)の使いせり。汝が『領(ウシハ)ける』葦原(アシハラ)の中(ナカ)つ国に、我が御子の『知らさむ』国と言いよさしたまへり。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。
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