2003.5.6 直観的思考の点描3 島崎藤村の夜明け前掲載。
何でこんなことを書いているのだろうと思いながら書いている。すでに手技療法の世界を逸脱してしまっているし、これで世界が変わるわけではない。フライトシミュレータの操縦桿もしばらく握っていないし、ネットで空中戦を楽しんでみたいのに、こんなことを書いているからそれができない。だが、書かなければ、こうしたアイデアで頭がいっぱいになり、そのアイデアははけ口を求めて、治療中であろうと、瞑想中であろうと顔をだしてくる。書かない限り、そうしたアイデアは頭の中を占領し消え去ってはくれない。心の平安を保つためには、早く書いてしまって、頭からそれらを追い出さなければならないのだ。
今、思い出したが24年前(1979)ふらりと10日ぐらいの予定で、どこに行くあてもなく旅に出た。新宿で松本行の列車が来たので、思わず飛び乗ってしまったのが出発だった。松本駅には深夜に着いた。駅のベンチで野宿。翌朝、何処へ行こうかと考えている時に、木曾が近いことに気づいたので、中央本線で南木曾に行き、妻籠から馬籠まで歩いてみることにした。中山道のだらだらした坂をひたすら上り、しまいには足が前に出なくなったが、藤村の夜明け前の舞台を歩いた。
馬籠に出ると、その先は名古屋である。名古屋で木賃宿に1,000円で1泊して、次はと調べると、松坂が付近にある。松坂には本居宣長のお墓がある。そこで訪ねてみることにした。小さな滝があった。真夏のことなので大汗をかいていたこともあって、人一人いないことを良いことにして、パンツ一丁で滝に打たれ、沢がにと遊んだ。
鈍行列車を乗り継ぎ、野宿をしたり、木賃宿や泊まりながらの思い出深い旅だったが、ここで書いた論文の舞台を24年も前に歩いていたのだ。不思議な気がする。どんなに大きな巨木であっても、始めは小さな種である。地に落ち芽が出れば、やがてば大きな木に育つ。時間という、不思議な力によって、内包されていたものは開花する。してみると、思考の種というのがあって、それも育つのだろうか。では、その種はいつ植えられたのだろう。おそらく生まれた時に。ということは、これは生まれた時に決まっていたことなのだろうか。
2002.7.9 直観的思考の点描1 聖徳太子とマハリシ、直観的思考の点描2 本居宣長と古事記を掲載。
2002.2.13 二原則と三原則の系譜、二原則と三原則の構造を掲載。次は「直観的思考の点描」。これで終わりかと思ったらまだアイデアが出てくる。いつになったら終わるのだろう。
2001.5.15 手技の統一原理その1−傾斜圧編−、手技の統一原理その2−反射編−、筋紡錘の秘密−手技の統一原理3を掲載。何とか、5月の全国講習会にまにあった。あるじの言い分もそろそろ大詰め。残すは「二原則と三原則の系譜」のみ。ご期待ください。
2001.4.9 野口整体と分かれたもう一つの理由を掲載
2001.3.28 魔境に陥らないため(グルの役割)を掲載
2001.3.27 全体フォームの手直しと、東京支部研修会案内等を更新
2001.3.26 「小関勝美先生のこと」を掲載。
2001.3.21
しばらくご無沙汰していました。なんと8ヶ月間も。この間私はフライトシミュレータで遊んでいました。だいぶうまく飛行機を飛ばせるようになりました。しかし、今年は均整法創立50周年になります。5月には四国で亀井先生の法要とともに全国講習会が行われます。何とかそれまでもう少し均整法の理論等をまとめておきたいと思い、重い腰を上げました。第1段は野村先生の目録を更新しました。野村先生ご自身が自ら解説されております。ご一読ください。(野村先生の目録をクリックしてください)
1999.7.5
やっと出来た。思えば96年(平成8年)2月、パソコン通信の世界に飛び込んで、はじめて読んだのが「カイロ・整体等 無資格業者 撲滅総決起大会」の記事だった。井の中のかわずが大海を知った瞬間にくらった最初の一撃である。手技療法の世界、とりわけ均整法があまりにも知られていないことにビックリして、何とかしなければと思い、パソ通を通じて均整法の考え方を発表してきた。様々な方の手助けを得て、かなりまとまった発表ができたと感じたので、今度はインターネットにチャレンジしたしだいである。
読者の方がどう読まれるかは知る由もないが、自分なりにはかなり満足するできばえだと思っている。このページを通じて均整法や手技療法にいくらかでも理解を進めてもらえたら、私の意は通る。また、ここまで読まれてくれたことに感謝いたします。