直観的思考の点描1

聖徳太子とマハリシ

 

二原則と三原則の文明論

 診断(観察)と治療(調整)法に、二原則的な方法と、三原則的な方法がある、という発見は、診断や治療方に止まらず、われわれの文明のあり方にまで、私の思考を飛躍させてしまった。それを、ここで論ずる事は、もはや均整とか手技を論ずる範囲を越えてしまうのだけれど、今日、閉塞的状況にまで追いこまれてしまった、われわれの文明の未来に光をあてることになりはしないか、という思いに駆られて、以下の文を書いてみた。

 新ためて、今一度、津田左右吉の言葉を借り、中国人とインド人の思考の特徴を書出してみるとつぎのようになる。

 中国的な思考の特徴は、『政治に発足し政治に帰着する。その注意は現実の生活に於ける人と人との関係を離れない。世間的実利的、現実的で目前の事物に終始する』。

 これに対して、インド的思考の特徴は、『すべて宗教から発達し宗教に従属する。その思索は宗教的形而上学的問題に集中せられる。思索的、瞑想的で空想的で、その空想が奔放である』

 さらに、これに、私の考えを追加させれば、中国的思考は、漢字のような表意文字(象形文字)を使うことに象徴されるように、形を大切にして、物事の本質を、表に現れた形によって把握しようとする。このことにより、どちらかというと、心よりも、物を大切にすることに重点が移行してしまう。潜在意識よりも、顕在意識を活用し、物と物との関係、事柄と事柄との関係などの比較に関心が向き、それらを比較検討する。その方向は水平的といえる。それは、効率を重んずる文化となり、実用性と高い生産性を有するようになる。今日の科学的、分析的な思考法は、こうした考え方をベースにしている。

 三原則とは、インド的な文明の特質で、デーウ゛ァ(神)・ナーガリー(都市、村)と言われるサンスクリット文字のような、表音文字を使うことに象徴され、音を大切にして、物事の本質を、物事の奥に潜む音に求める。どちらかというと物よりも、心を大切にすることに重点を置く。このことから、顕在意識よりも、潜在意識を活用することになる。物と物との関係、事柄と事柄との関係などの比較よりも、一つの存在を階層構造としてとらえ、その構造をさかのぼることにより、存在そのものが発生した究極の姿を捉えることに意義を見いだす。したがって、垂直的な思考となる。効率よりも理念を重じ、実用よりも芸術を重ずる。したがって生産性は低い。科学よりも芸術を重じ、物事を分析的に把握するよりも、直観的に把握する。私は、この三原則方法を、直観的思考法と呼ぶことにした。以上を表にすると以下のごとくになる。

 

二原則

三原則

中国的

インド的

表意文字(象形文字)

表音文字

形を大切、形による把握

音を大切、音による把握

物を大切にする

心を大切にする

顕在意識を活用

潜在意識を活用

水平的

垂直的

効率を重んずる文化

理念を重んずる

実用を重じ、高い生産性

芸術を重じ、低い生産性

科学的

芸術的

分析的

直観的

形にとらわれる

自由奔放

 しかし、このように表に現しても、それぞれの用語の個々の概念にはもっと詳しい説明がいる。その一つ一つを論ずれば、長文を書かざるを得ない。それでは、読者も退屈だろうし、書く方の私も面白くない。そこで、直観的思考とはどういうものかと言うことについて、その特徴を点描してみることにする。

 

橘(たちばな)寺にて

 1975年3月22日、私は近鉄吉野線の飛鳥駅に降りた。この飛鳥という駅名は5年前の1970年8月1日に改名され現在のものになったが、それ以前は橘寺といっていた。当時、大坂で開かれていた万国博に集まった人々を呼び込むことを考えてのことか、古代史ブームにあやかってのことかはわからないが、飛鳥より橘寺という名前の方が、この地にはふさわしいように思えた。橘寺というのは聖徳太子誕生の地に建てられたお寺である。飛鳥という駅名よりも橘寺の方が地元の人々の太子への思いがそのまま伝わってくるようで、私には好ましかった。

 駅のホームに立ち、東の方を望むと田園風景が開けていた。この風景の中に、酒舟石や石舞台、豊浦宮(とよらのみや)跡、甘橿丘、高松塚古墳、天武、持統天皇陵、飛鳥寺等々の史跡が点在しているのである。荒々しいまでに力強く、高貴な古代日本の文化はこの地、飛鳥を中心に展開された。そのほぼ中央に橘寺はある。あたかも飛鳥文化を生み出す元となった中心人物を象徴するかのように。

 その橘寺を訪れ、今でも記憶の底に、鮮烈に残っているのは、黒駒と蓮華塚である。黒駒とは聖徳太子の愛馬で、今は立派なブロンズ像ができているが、当時は馬小屋があったとされるところに、その馬小屋を模した小さな建物が建てられていて、中に1メートルくらいの小さな木彫りの馬がおかれているだけだった。立て札には、夜になると太子はこの黒駒に乗って空を駆け、天竺(てんじく=インド)に行って、「三教義疏」(法華経.維摩経・勝髷経)を解く基となった知識を授かった、のだと書いてあったように思う。

 太子はこの地で、三日にわたり仏教の講義されたのだが、これは、日本で初めて仏教の体系的な知識が語られたことを意味する。それは勝鬘(しょうまん)経を解き明かすことから始められた。勝鬘経というのは、インド舎衛国ハシノク王夫妻が、アユジャ国友称王のもとへ嫁いだ娘の勝鬘(しょうまん)夫人へ仏教への信仰をすすめる物語である。仏教の真理を日本人に初めて紹介するには、まことにふさわしいお経であるといえよう。

 蓮華塚というのは、その勝髷経の講義のとき、天より蓮の華が降り積もったといわれ、その蓮華を埋めた場所であるという。まるでおとぎ話である。しかし、わたしはこれが夢物語には思えなかった。事実として現実に起こったことなのだと感じたのである。

 コリン・ウイルソンの『アトランティスの遺産』(川瀬勝訳 ・角川春樹事務所)の中に次のような一節がある。

 『 ユングは、「心霊的な出来事を引き起こす、何か物理的なプロセスが存在するか、あるいは物質界に先立つ存在である精神世界が、物質界を秩序立てて、まとめているのだ」と述べている。この意味するところは、そのような偶然は、精神が調和とバランスのとれた状態にあるときに起きる、ということだ。

 その好例は、ユングの友人で、易経を翻訳したリチャード・ウィルヘルムが彼に語った話だろう。あるときウィルヘルムは、干ばつに悩まされている中国の遠方の農村にいたが、遠くの村から、雨乞いの力を持つという人物が派遣されてきた。男は村のはずれの小屋を使わせるよう求めると、その中に入ったきり三日間出てこなかった。三日間の終わりに、猛烈な雨が降り、それが雪に変わった。ウィルヘルムは、その老人に、いったいどうしてこんなことができたのかと訊ねた。老人は自分がしたのではないと答える。「私はすべて物事が全き秩序にある場所から来ています。雨は降るべき時に降り、陽光が必要ならば晴れます。しかしこの村の人々は、皆ものの道からはずれ、自分自身のあるべき姿からもはずれてしまっています。私もここに来てすぐその状熊に感染してしまったので、ひとりになれるよう、村はずれの小屋を頼んだのです。自分がふたたび道とともにある状態になったとき雨は降りました。」

 この話はホールがインデイアンたちの自然との調和を語るときに言いたいことの完璧な例と言えるだろう。また「限りなき調和」という、ヘイズの著作の題が表わしているものの例でもでもある。』

 

 太子が勝鬘経(しょうまん)を語った時、上述した「限りなき調和」が生まれたのではないだろうか。太子の残された法華、維摩(ゆいま)、勝鬘の「三教義疏」は大変優れた著作であるらしい。特に法華経義疏(疏とは書物の注をさらに注釈する。注の注という意味)は後の時代になって渡来した鑑真和尚が、この著書に触れて驚き、「日本と言う国には、既にこのように優れた解釈がなされている、深々の仏教有縁の国だ」と、中国の皇帝に写本をおくったと言われ、また中国のある時代には、法華経を学ぶ修行僧のテキストとして使われた、というくらいだからきわめて完成度の高かったようである。

 その深遠な教えが、606年に太子によりこの地で語られた時、大気を激震する、激しい調和の衝撃が起こったといえなくはないか。そのとき人々は身を震わせるような感動に包まれたことは想像に難くない。そして人々はその感動を後生に伝えるべく蓮華塚として残したのではないだろうか。

 黒駒というのも、この馬で空を飛んでインドに行ったというのではなく、瞑想により、深い根元的な世界に到達したという、象徴的意味であろう。黒駒は達磨大師が化身した馬だ、とされていることが、それを物語っている。

 達磨はインド人で禅の開祖である。禅 は元は『禅那』とよばれていた。サンスクリット語の『dhyana デヤーナ』が、パーリー語では『ジャーナ』になり、それが漢字のの『禅那』になり、さらに『禅』となった。『dhyana デヤーナ』は統一とか三昧という瞑想の最高の境地を表す言葉なのだから、太子は瞑想により、三教義疏を得く知識を得たと解するべきで、インドへ飛んでいったというような、外に教えを求めたのではなく、自己の内より、仏教の叡智を引き出したと考えるべきであろう。黒駒と蓮華塚は当時の人々が、後のわれわれに感動を伝えようとした、タイムカプセルなのだと思うのである。

 

マハリシと浅間(せんげん)神社と古事記

 次の話は、わたしの瞑想の師、マハリシにまつわる話である。1984年11月、わたしは富士五湖の一つである精進湖の畔で行われた、TM(超越瞑想)の合宿に参加した。その自由時間で、年末も近いということもあって、初詣のことが話題になった。TMの瞑想者が、この付近の、浅現神社に、新年のお参りをするというのである。

 インドの瞑想をする、インドかぶれ(かぶれているのは私も同じだが…)の連中が、なんで、神社にお参りするのか、不思議に思って聞いてみた。すると次のような話を聞くことができた。TM(瞑想)の創始者、マハリシが来日した折に、せっかく日本に来たのだから日本の景色も見てもらおうということになった。そこで、いそがしい時間の合間をぬって、富士山にお連れした。その道中、ちょうど浅間神社の前を通りかかった時、マハリシが車を止めさせた。そしてマハリシは、一人車を降りると、神社の奥に行き、3時間ほど出てこなかったということである。帰って来たので、何をされていたのかを尋ねると、瞑想をしていたという。どうでしたかと尋ねると、「ここにはマザーディヴァインがいらっしゃる」と言った。

 その話を聞いたとき、私に、ある連想が生まれた。浅現神社が、お祭りする神様には、たしか「此花咲耶姫(このはなさくやひめ)ではなかった。そうだとすると、此花咲耶姫は迩迩芸命(ににぎのみこと)のお后で、その子供は、釣り針を無くす話で有名な、海幸(うみさち)と山幸(やまさち)。その山幸と竜宮のお姫様の豊玉(とよたま)姫の御子(うがやふきあえずのみこと)が、豊玉姫の妹の玉依(たまより)姫と結婚して、お産みになった御子が、神倭伊波禮彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、すなわち初代の天皇となられた、神武天皇である。だから、此花咲耶姫は神武天皇の、ひおばあさんということになる。まさに、わが国の曾祖母 great-grand-mother である。つまりgrandと言う言葉が内包する、雄大な、壮大な、遠大な、崇高な、荘重な、最も重大な、すべてを含めた、全体の、母ということになる。

 マザー・ディヴァインというのは「母なる自然」という意味になる。母なる自然はあらゆる生命に滋養を与え生命を育んでる。マハリシの言葉をかりると次のようになる。『マザー・ディヴァインは、統一場の、素晴らしい滋養となる、特質を活性化します。つまり調和、自己充足性、無限の躍動と無限の静寂、無限の創造力、自分自身の内と外との完全な秩序と至福、などの特質です。世界平和と「地上の楽園」はその副産物として生み出されます。………女性の生命の威厳には限りがありません。女性の地位は計り知れません。女性の役目は神聖です。女性は維持と創造と生命の促進の役割を担っています。静穏な雰囲気が、女性から周りに広がって行きます。激変する世界にあって、女性の目は彼方にある真実、変わることなく続く、真実を見通しています。(月刊ユートピア1993年1月号)』

 マハリシは浅間神社での瞑想で、「此花咲耶姫=マザーディヴァイン」という、実体を感じ取ったが、この話には後日談があり、東京へ戻ると、マハリシは日本の神官の話が聴きたいと言った。そこで、現在、中央大学名誉教授、神道国際学会会長、神社本庁教学顧問、伝統みそぎ道場稜威(みいつ)会会長の中西旭先生に会って、神道と古事記についての話を聴く。その時の様子の一部が、月刊ユートピア2002年3月号「神道から見た健康と教育について−中西旭先生−」に載っているので、次に掲載する。

 

かって、マハリシ師とお会いしたとき、真っ先に御霊(みたま)について、聞かれました。その表面は「荒魂(あらみたま)」、その奥に「和魂(にぎみたま)」、さらに「幸魂(さきみたま)」、「奇魂(くしみたま)」の四段構えになっているのです、と述べると、「その通りです」と応えられました。その「荒魂」「和魂」等も全部「直霊(なおい)」に貫かれていますが、近代の文明は「荒魂」の立場なので、人間をはじめ事物がバラバラな対立です。

 これに対して、縄文時代は逆で、「和魂」のレベルなので、愛し合い、慈しみ育てあってゆくのですから、この時代の方が長命で、一万二〜三千年は続いていたことが、分かってきています。当時の土器なども沢山出てきますけれども、そこには武器が未だに見つからないのです。それなどは汚らわしいので、置いておかなかったのでしょう。ものの見方が深く狭かった時代と、近代とでは、世界情勢が大きく違いますね。しかし、結局は「神(かん)ながら」になるべきように有らしめられましょう。

月刊ユートピア2002年3月号

 

 この対談の後、マハリシは深い感銘を受け、「古事記はヴェーダです」と言い残して、インドに帰っていった。

 ヴェーダとは、サンスクリット語で「知識」「英知」と意味する言葉である。古代インドから継承される英知の体系。宇宙創造の設計図。無限の意識が全宇宙創造をするメカニズムの統べてが表現されている。古事記はそれであると言って、帰っていったのである。

 以上、述べた、ふたつの事柄に共通することは、瞑想より、物事の本質を捉えているところである。私は、この方法を、直観的思考法と呼ぶことにした。直観的思考法は、われわれが今日、習い、用い、尊しとして、われわれが用いる、分化や分析を旨とする、科学的思考法とは、質を異にし、別のものである。この方法は、科学的思考法に先鋭に対峙する。

 心の中にきざして来る思いがある。それに耳を傾ける。直観的思考とは、そうした心に投影して物事を考え把握しようとする、思考方法である。

2002.7.9


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