二原則と三原則の構造

 

均整の三原則

 

先の項で述べた三原則について、亀井先生はどのように言っているのか見てみます。

『(人間の)行動は、人体機能の三法則といわれる、可動性、平衡性、強弱性の三者が円融することによって円滑に行なわれている。この三者の法則のうち、人間では可動性が中核となり強弱性と平衡性がそれを補佐することによって行動をコントロールしている。この運営が乱れた場合に、人体には異常が起きる、かかる想定のもとに運動系を追求したのである。

 このことを理解する上において、植物の生活様式とその環境を検討した場合。植物では、強弱性が中核となり、平衡性と可動性がそれを助けて生活を営み、環境に耐えている。

 植物は動物の如く移動や、様々に行動することが出来ない。したがって生活に耐える栄養素を他の場所から運んでくることはできない。根をおろした地所に生活養素があろうがなかろうが、その場所において過ごす以外に方法はない。したがって強いものはのこり、弱いものは枯れるという、強弱性が中核になった生活をしている。植物はこのようにきびしい強弱性を主体として、平衡性と可動性がこれを助けて生存している。平衡性がないと倒れ、可動性が欠けると風雨にも耐えられないからなのであろう。

 さらに、構造物では、平衡性が中核になっている。平衛のとれていない構造物はその型を保つことはできない。構造物では平衡性が主体になって、強弱性と可動性がこれを保持している。

 このように比較してみると、動物の特性は可動性にあるということがわかる。しかし、可動、平衡、強弱の三法則は、単に運動系のみについて適合するのではなく、神経系、内臓各効果器にも適合する法則であるが、当席では運動系に関して追求したものを述ベるわけである。(機関誌16号』

『今夜は、均整法の「ものの見方」「考え方」について、お話をいたします。

 これについては、第一に科学的でなくてはなりません。第二に、科学的なだけでは、無味乾燥でありますので、それに情緒というものが加わらなければなりません。第三に、以上の二つだけではだめなので、この上に芸術性が伴わなければ、完全とはいえません。これは、非常に重要なことで、これが均整法の「ものの見方」「考え方」の原則であります。

 ものの考え方には、唯物的な考え方、また、これに対抗する考え方に、唯心的な考え方があります。この唯物的ということは、いいかえれば科学的ということで、これは現実に実在するものから、抽出したり、分析したりして、ものを見、また、考えることであります。科学があってこそ、世の中の進歩があるのでありますが、これだけでは、潤いがありません。この潤いというのが、唯心的な考え方になるわけで、さきに申しました、情緒ということになります。 唯物的な考え方も、そこに唯心的な考え方があってこそ、活きるのであります。科学の中にも情緒がないと、科学は活きてこないので、ものを考えるのに、唯物的(科学的、現実的)な考え方と、唯心的(情緒的、仮空的)な考え方との二つだけでは、解決はつかないのでありまして、この上に、芸術的な考え方が加味され、この三つの考え方が、円融してこそ初めて立派な、いわゆる均整的な、ものの見方、考え方ができるようになるのであります。

 いいかえてみますと、それぞれ性質の異なる二つのもの(唯物的、唯心的)が相対していたのではものの解決点は見出せないので、この両者をうまくコントロールするところの、中心となるものがなくてはなりません。この中心となるものが芸術性ということであります。

 均整の徒は、ものの見方、考え方、話の聞き方、その他一切の事柄にこの原則を当てはめて批判し、学び、習得し、建設するのでなければなりません。

 ここに二、三、例をあげてお話してみましょう。

 洋服をつくる場合も、まず科学的(生地はいいか、洗濯にたえられるか、どうか等)に吟味して、次に情緒的(好きとか、嫌いとかの好み)が加わり、その上にその洋服が活きるか、死ぬるかの問題として、芸術性(デザインとか、仕立て)が加味されなければなりません。芸術性がないと、立派な洋服も死んでしまいますが、芸術的であるとまずいものでも活きるのでありまして、芸術性があるということは、そのものを価値あらしめることになるのであります。

 恋愛を通して結婚を考えてみましても、まず唯物的にこの男性は、遺伝的に見て、健康状態はどうか、衣食住は維持できるであろうか、月給はどうか、美男子であるかなど考えますが、その上に愛情はどうか、やさしい人であろうかと唯心的な面、すなわち、情緒的な面を考えます。だが、物質と情愛だけでは、それが満ち足りると、もの足りなさを感ずるようになります。そこで、この二つが活きる才能、すなわち、芸術的なものがないといけません。物質的な面からみますと、高級な犬などは、中流生活の人間も及びもつかぬような贅沢なくらしをしているし、情緒的という面から見ますと、鳥などは、非情に愛情こまやかに、いとも情緒的で、人間などそばへも寄れませんが、芸術の点だけでは、人間にのみ許された特権でありまして、より高い段階へすべてを向上させ、あるいは、ものをつくりあげるという建設性(芸術性)があるので、そこに人間としての尊さがあるのです。結局、三つのうちいずれが欠けてもいけないので、どれが一でもなし、二でもなし、三つが円融していないといけないのであります。

 お花を活ける場合でも、庭に咲き乱れてこのままでおくと、もう散っていく運命を待つばかりというとき、これを下界の刺激から守ってやり、一日でも長く命を保たせてやるためにそっと切り取って花瓶に活けてやるとか、水をよく揚げて一日でも長く保つように操作を加えるとかの科学的な考え方をし、また、どういう活け方をすれば一番美しく、好ましく、その花の持ち前を生かすことができるであろうかと情緒的に考え、次には、どんな形の、色の花瓶によく映るかと花瓶との調和を考え、置く場所、床に置くか、玄関に置くかなど芸術的な考えを交えて、最もその花の存在を価値あらしめるように心がけるべきでしょう。・・。』

と、均整法のものの見方、考え方は、三原則だと言っているのですが、その説明を聞いていると概念としては何となくわかるような気がするものの、では臨床の場で、この三原則を診断に調整に、どう生かせばよいのかと言うと、かいもく検討がつかなくなってくるのです。ただ、わずかに、「平衡性、可動性、強弱性」が狂った場合の椎骨の診断法は明らかになっています。それは次の通り。

 

三大法則による脊椎変位の観察

1. 平衡性の欠如……脊椎の平衡性が乱れた場合、椎骨を左右とか上下とか相対的に鑑別すると、つり合いがとれていない狂い方をしている。カイロでいう変位の形式に当てはめると、左又は右後下方変位、左又は右前下方変位、側方変位となる。・・

2. 可動性の欠如……脊椎の可動性が欠けると、椎骨は後方に突出する。

 カイロでいう後方変位、前下方変位がこれに当たるが、椎骨が1個だけ後方変位を起こすことは少なく、数個の椎骨が全体的に後彎を示すことが多い。1個だけ突出して触診されるのは前下方変位で、棘突起が後にはね上がっている場合が多い。椎骨の突出は腰椎部に多く見られる。・・

3. 強弱性の欠如……脊推の強弱性を失うと、椎骨は陥没する狂い方をする。

 カイロでいう前方変位、後下方変位がこれに当たる。前彎もこれに属し、左右の背筋が盛り上がり脊柱が沈んだような形をしている。・・

 我々は運動系によって体を観察するのであるが、運動系の形から椎骨をみる場合、以上のように背骨が後にとび出ているか、前に落ち込んでいるか、左右のつり合いはどうかの三つだけで事は足りるのである。(均整第23号 身体均整法第2回実技特別研修会』

確かに、これで椎骨はこの観察ができるとしても、内臓の場合の平衡、可動、強弱の乱れはどうなるのか。例えば胃が重いと訴える患者に、あなたの胃は強弱性の乱れから・・などと、判断する基準は明らかではありません。

また膝や肩などの関節の場合、五十肩を訴えてきた方に「あなたの肩は可動性が乱れてまして・・」と言ったら「当たり前だ動かないのだから」と言われそうです。同じようにこの「この大胸筋の緊張は平衡性が乱れてるからで・・」と言っても、「大胸筋の平衡性て何のこと?」となってしまいます。

つまり、三原則への考え方は、はなはだ立派なのですが、臨床に活かそうとすると結構いい加減なものになってしまうのです。それでは、役に立たない使えない診断法や調整法なのでしょうか。とんでもない、少し認識を変え、工夫を凝らせば、より本質的な診断法、治療法に変化するのではないかと私は考えているのです。

 

二原則と三原則の構造

 その為には何故、三原則は忘れられ、廃れてしまうのかを考えてみます。二原則と三原則は、どちらが正しいというのではなく、見る視点の違いによるものなのです。二原則と三原則の関係は、おそらく下の図のように関係になっていて、表に現れる緊張と弛緩などの可変を見ようとすると二原則に、内在する変化に注目したときには三原則になるのではないかと思ってます。

 

 三原則は体の内にあり、二原則の変化を決定しているのです。三原則の「平衡、可動、強弱」が、二原則の「緊張、弛緩」に変化を与えているのです。

 やっとここまで来ましたので、結論を急いじゃいましょう。私は均整のこの平衡性、可動性、強弱性が、アーユルヴェーダの三原則であるヴァータ(V)、ピッタ(P)、カファ(K)に置き換えられと密かに思っているのです。

 

 ですから均整の「緊張、弛緩」、「鼓舞、抑制」のバランスは、アーユルヴェーダの三原則であるヴァータ(V)、ピッタ(P)、カファ(K)が握っている、と言えないでしょうか。

 なにー、ヴァータ、ピッタ、カファ?、リシ、デヴァタ、チャンダスではなかったか、と疑問をもたれる方もおられるとおもいますが、「正確には後二つの三つがあるが省く」と書いておいてこと思い出してください。

 サーンキャの哲学では、リシ、デヴァタ、チャンダスが下になり、次の二つが生まれると説いてます。すなわち「ヴァータ、ピッタ、カファ」と「ラジャス、タマス、サットバ」の二つです。前者は体の物質的な働きとして、後者は心理的な働きとして生まれたものです。ですから、体の診断には「ヴァータ、ピッタ、カファ」の状態を見ることが基本になります。この説明も煩雑になるのでここでは省きます。

 そして、この関係は八綱弁証(理論)と気血水弁証(理論)を考える上でも成り立ちそうです。なぜなら、ヴァータ(V)、ピッタ(P)、カファ(K)を中国語訳したものが、気血水なのですから。すなわちヴァータ(V)=「気」、ピッタ(P)=「血」、カファ(K)=「水」なのです。そして、次のようになります。

 

 存在の外側に二極の構造はみえますが、その内側に潜んでいるに三つの働きは見えません。この構造のために、存在を外側から観察により物事の本質をとらえようとした中国人には、二極の構造をした陰陽がとらえやすかったのです。ですから、二原則をつかって「陰陽、表裏、寒熱、虚実」で判断した方が、「気血水」の三原則より使いやすかったのでしょう。適切な診断を出しにくい為に、次第に使われなくなっていったのではないかと思います。

 同じことが均整法にも言えて、三原則という体の中に働いている「平衡、可動、強弱」の関係をみるよりも、二原則で体表に現れる「緊張、弛緩」のバランスを診断して調整する方がはるかに治療しやすく、現場に適しているから、多くの均整師は二原則を使うことになるのです。

 しかし、以上のような関係が成り立てば、アーユルヴェーダの診断法によって、先に困難だと書いた平衡、可動、強弱の三原則の変化を読みとることができるのではないでしょうか。アーユルヴェーダで三つの働きを見るためには、脈心が必要になります。脈心こそインド人の価値観の中から育ってきた、直観的な診断法といえるでしょう。この脈診を均整法に移植してやれば、本質的な診断や治療が出来るような気がします。

 

アーユルヴェーダの脈診

 この脈心は「ヴァータ、ピッタ、カファ」という三種類の脈の状態をみて体の異常を診断します。この脈は手首の橈骨動脈に人指し指、中指、薬指を当てて見てゆきます。

 その前に、手の指はなぜ五本あるのでしょうか。これにも意味があるとインド人は考えました。拇指は「空」の、人指し指は「風」を、中指は「火」を、薬指は「水」を、小指は「地」を現しています。そしてそれぞれの指が五つの要素のセンサーとなります。

 したがって「空、風」の質が合わさり「ヴァータ」になるといわれています。「ヴァータ」は拇指と人差し指が関知しますから、「ヴァータ」のセンサーは拇指、人差し指のどちらでも良いのですが、脈診の場合にそれを人差し指をあてます。

 次に「火」の質が「ピッタ」になりますが、そのピッタは火のセンサーとなる中指をあてて診ます。

 「水と地」の質が「カファ」になると言われていますから、薬指と小指がそのセンサーですが、この場合は薬指を優先します。こうして人差し指、中指、薬指の三本の指が、それぞれ「ヴァータ、ピッタ、カファ」のセンサーになるというわけです。

 先に「ヴァータ、ピッタ、カファ」を中国語訳したものが「気、血、水」と言いました。しかしながら「気、血、水」と漢字を当てはめてしまいますと、今度はその字によって、意味範囲が制限されてしまいます。たとえば「ピッタ」に「血」と当てはめられてしまいますと、いかにも血液に関係してもののように思われてしまいがちです。

 「ピッタ」を「血」としてしまっては「ピッタ」の本質は分からなくなってしまいます。これは「火」の作用ですから、熱い、消化作用、情熱、鋭い・・などの元になる作用ですので、「ピッタ」は「ピッタ」とそのまま使った方が良いのです。「ピッタ」と発音してみてください、その言葉からいろいろな感覚が産まれてきませんか。「鋭い、熱い、激しい、赤い等など」。そうですそれが「ピッタ」というドーシャの属性なのです。「血」と訳されては、ピッタの一分部しか現してはいないのです。

 ここから大変な誤解が生まれ、今日に来ましたが、このことについても触れる余裕はありませんので省きます。また、漢方にも脈心は有りますが、おそらくそれは、このインドの脈心が、本来は三原則であるはずの脈心が、中国的な発想の元に二原則の衣をまとって変質していったものであると思います。そのためシンプルさが失われ、ややっこしいものになってしまっていると思います。

 三本指で診る脈には以上のような意味があるのですが、その変化を、均整の平衡、可動、強弱に置き換えてゆけば均整流の脈診が誕生するのではないでしょうか。人類最古の医療体系も持った整体法の誕生です。後は、本当にヴァータ(V)、ピッタ(P)、カファ(K)が、均整の平衡性、可動性、強弱性に置き換えることが出来るのか、その検証と応用が残るのですが、これは企業秘密といたします。なーんちゃって、本当はここから先はあんまり考えてなかったりして。・・


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