魔境に陥らないため(グルの役割

 変性意識状態でこの魔境に陥らないためにはどうしたらよいのでしょうか。

 私が瞑想を習い始めた頃のことです。先生「呼吸が深くゆっくりしてきました」とか「静けさを感じます」とか「小鳥のさえずりなどの自然の音が心地よく感じます」と言う感想に、教師は「それはとても良い体験です」と答えてくれるのですが、先生「白い光を見ました」とか「天使をみました」と言う感想には「それはストレス解消の一種ですからあまり気にしないように」と言う答えが返ってきました。

 ある友人の教師は「先生の体から黄金のオーラが出てました」という感想に、「それは間違いなくストレス解消ですからそのことに注意を向けないように」と答えていました。このように私の行っている瞑想では教師から「それは良い体験」という答えを聞くことは希で、多くは「ストレス解消です、気にしないで」という答えが返ってくることが多く、答えを聞く前から、どうせ「ストレス解消」と言われるに決まっていると予測がついてしまうのです。

 「チベットのモーツァルト」という本の中で、中沢新一氏もラマ僧から似たようなことを指摘され諭されています。1979年チベットの密教僧に弟子入りした中沢氏は「ポワ」という幽体離脱の修行をしていて、

 『・・・私が身体の外にいて、自分の身体を上の方から見下ろしている。・・・上方を見てみたいと意識をそっちに向けた。そこはまっ赤な光におおわれていた。・・・』

 私は少し自慢げにこの体験をラマに語つた。一年以上も続けてきた瞑想の訓練がついにこんなヴィヴィットな体験をあたえてくれたことが嬉しかったし、なによりもそのことでラマに感謝したい気持ちでいっぱいだったからである。けれど、だまって私の話を聞いていたラマの返事は意外に冷淡なものだった。

 「おまえはそこで何を見ていたのだと思う」ラマがたずねた。
 私は・・・「空性というものを体験していたのではないですか」

 「ちがう。おまえの見ていたのはただの幻にすぎん。そこが終着点だなどと思つたら大間違いだ。それにおまえはすぐ自分の体験に名前をあたえて理解のおもちゃ箱に技うりこんで安心しようとする。おまえの体験していたものは空性なんかではまるでない。ただの幻を見ていたにすぎないのさ」

 私は少々ムッとした。体験の深化をよろこんでくれてもよさそうなものだとも思つたし、修行をはじめる前にうけた口伝で言っていたこととずいぶん調子が違うじゃないかと思えたからである。私はムキになって反論した。・・・

 「それはおまえが、現実というものが夢や幻のようなでき上がりをしているということを、頭では理解していても、本当のところはちっともわかっていないからだ。・・・そこでちょっとばかり瞑想のテクニックを憶えて意識の状態を変えることができると、今度はそこで体験したことを絶対化して、名前をあたえ、この現象界にたいする空性だなどと言つてみせているだけだ。水の目玉が見ている現実も、瞑想で体験する現実も、どちらも現実などではない。おまえはまだ現実というものをつかみきっていないのだ」

 この言葉に私はすっかり気落ちしてしまった。』

 私のおこなっている瞑想でも、中沢氏での例も共通しているのは、指導者が幻覚や幻聴のたぐいには意識をフォーカスさせないようにしていることだと思います。

 ここで中沢氏が「空性」といっているのは、般若心経でいわれる「空」のことですが、それを体験したのではないかと得意になって師に言うのですが、師からそんなのは「空」ではない。ただの「まぼろし」だと言われてしまいます。

 瞑想の究極目的はこの「空」なるものを体得することにあると思いますが、そして、これこそわれわれの本体であり、現実そのものなのですが、簡単につかめるものではありません。その「空」を体験しようとする瞑想の過程で、われわれの意識はいろいろな体験をし、特に現実にないようなものを見るとか、意識が研ぎ澄まされ、五感を超えた六感の領域で物事を見れるといった、一種の超能力を身につけることができるようです。

 しかし、その時、大事なことは、われわれの生きている現実世界との接点を失わないことです。そうした幻覚や超能力に捕らわれてしまいますと、精神のバランスがどこかで狂い、この現実世界を認識する能力が少しずつ変容しはじめるようです。この現象を魔境というのではないか思います。

 特に「空」を体験するということは絶対的な体験となるはずですが、それはとうてい言葉での表現のおよばない世界、淡く消えてしまうくらいかすかな体験であると同時に、圧倒的なほど確かな体験となるはずです。白であり黒である、極大であり微細である、などなど正反対の言葉を使ってしか表現できない世界のはずなのです。

 色や形や何かで表現できるようでは、それは相対的な体験であり、絶対的な「空」の体験ではないはずなのです。瞑想の指導者は相対的で形に現れるような具象的な体験から、それを超えて絶対的で非具象の世界への体験へと導こうとしているのです。

 グルは導師と訳されますが、まさに導くのです。それは子供の手を引いてゆくようなものです。手をつながれていない子供は興味のある対象を見つけると、後先のことを考えず、とっさに行動を起こします。その結果迷子になったり、怪我をしたり、さまざまな問題が起きることが予想されますが、グルはその子供の手をしっかりと握り、目移りしないように目的地「空」まで誘導してくれるのです。

 それがグルの役割であり、それは幻覚や幻想、謝った超能力の開発などについてNoと言うことなのだと思います。またそれを行う者も、そうしたものに関心を向けさえしなければ良いのです。かって、○○○真理教が幻覚剤まで飲ませて信者に神秘的体験をさせようとしたのとは、まったく正反対のことをすることになります。

 ヨーガ・スートラというヨガの根本教典は、あらゆる生き物の声を聞くことができる能力、前世を知る能力、他人の心を知る能力、姿を消す能力、死期を知る能力、神霊を見る能力、空を飛ぶ能力・・・を開発する方法を述べていますが、最後に「・・・諸結果は三昧(精神を集中し、雑念を捨て去ること)とっての傷害である。雑念にとっては霊能であるが」と述べています。

 以上のことから私は、亀井先生は興味本位に、そうした幻覚やら超能力をもてあそぶくらいなら、はじめから近づかない方が良いと考えたのだと思います。それで均整師には「するな」と言ったのだと思うのです。また、それは活元運動を指したのではなく、催眠や瞑想を含むあらゆる潜在意識を活用する能力開発法に対し、安易に近づく危険を警告しているのだと思います。

 しかし、以上のことを考慮し、それにとらわれなければ、またその指導をきちっと行っていれば、錘体外路系の運動(潜在意識を活用する能力開発法)を行っても安全だとも思えるのです。また、それは治療家にとっても必要なことだと思います。均整法にはその方法が明示されていないこともあって、初めて均整を学ぼうとする者は混乱させられます。私は均整法に野口先生が考えられていたことを移植できれば、その混乱が改善されるのでは、と密かに思っているのです。

939/QZW02663 ビーバー  グルの役割 (10) 99/04/15


活元運動と潜在意識(らくらくさんのコメントより)

 こんにちは、らくらくです。私も瞑想をしていたので、アーユル・ヴェーダ的観点や、無意識や潜在意識などの問題については、非常に興味があります。「ストレス解消ですね」といわれることからして、どうも同じ瞑想法のようですね。

 さて、今回は活元運動についてコメントさせて頂きます。ビーバーさんのコメントから、改めていろいろと当たってみましたらば、非常に興味深いことが分りました。それで一応確認できたことですが、まずは、錐体外路系=潜在意識ではないのではないか、ということです。

 野口整体では、錐体外路系の運動というのはビーバーさんのコメントにもある通り、錐体路系の運動(意識して動かす運動)ではないいわば無意識に行なわれている体の運動のことです。欠伸やくしゃみやまたたき、心臓が動いたり消化器が働いたりしている運動、また箸を使うとか自転車に乗るとか訓練によって自動化された運動をつかさどっているのも、この錐体外路系です。

 野口先生の方法論は、「人間の頭は、まだまだ人間の存在全体を完全に把握し切れていないのだから、錐体外路系のことは錐体外路系自身に任せようではないか」ということだったんだと思います。活元運動というのは、錐体外路系の運動を敏感に活発に行なえるようにしていく訓練であって、治療法でも、いわゆる健康法でもなく、そういうジャンル分けをするとなると、やはり訓練・鍛練の類いなのではなかろうかと思います。また、ビーバーさんのイメージされているように、禅にも近いかと思います。これは、戦後療術が治療法として禁じられるようになった背景も大きいと思いますし、ビーバーさんの御指摘の通り、野口整体の行き着くところは生き方の姿勢の問題になってしまうと私も感じています。野口先生は何といっても、「荘子」の人ですからね。

 ただ、活元運動をやっていて感じるのは、瞑想状態とは違い、あくまでも体の運動であるということです。今回いろいろ調べて確認できたことですが、それ以上のことが運動に絡んできたり入り込んでいたりすることはやはりあるわけですが、それはあくまでも活元運動外のことだということです。

 この点において、ビーバーさんが仰っている亀井先生の立場は、全くその通りだったのです。錐体外路系というのがどういう類いのものであるかという知識や定石がないと、純粋に活元運動である部分とそうでない余分な部分を識別出来ないわけです。運動自体が風変わりですから、興味本位に使われることもあるし、普及に力が入ってくると、指導者の統制を越えてよく分らないまま運動を行なってしまうといったことも多々あるわけで、亀井先生はそういう現実をいろいろと目にしてきて、最終的にこの方法は適切でないという判断に達したのではないかと思います。

 というのは、昭和45年頃の機関誌に活元運動のあり方について野口先生が話されたことが載っているのですが、それを読むと、当時の活元運動を行なっている現実として、活元運動が強くなると、庭を走り回ったり、木に登ったり、人に激しく抱きつくようにしたり、嫁や姑の悪口を言い始めたり、とにかくいろいろと騒々しいことが起こっていたようなのです。それに対して野口先生は、こう仰っています。

 『活元運動というのは、その人達の生活が現れる、その人達の潜在意識にあるものが出てくる。だから、その土地その土地で非常に違いがある。野蛮な人達が住んでいれば、木に登ったりひっくり返ったりする。やはりそれもその人達の本性の出方だから、猫をかぶっていても虎は虎になるわけで、素直に出るものはいいが、そういうようにやり過ぎると、その人の潜在意識の中にあるいろいろの動きが要求として出てくる。活元運動というものを通して、その人が空想する内容がそういうように出てくる。指導者の力みの問題でもあるが、半年から一年も経つとそういうのも皆安定してくる。そういうのは、最初の暫くのこと。

 梅干しを食べたことのない人は梅干しを見ても酸っぱいと思わないから唾は出てこない、梅干しを食べた人なら梅干しの話をしただけですぐ唾が出てくるように、あらかじめあった観念と刺激は呼応するので、その人が潜在意識に持っているものが出てくることもある。それはしかたのないことだが、できるだけ避けて「天心でやる」という本来の心に帰るべき。ところがいろいろの先入主があってそれに動かされると、天心の活元運動でなくて観念運動でやってしまう。

 ちょうど人の欠伸したのを見ていると欠伸が出るように、自発的な欠伸のように見えながら、その行動の誘いの出発点は心にある、頭の中にある。そういうのは純粋な活元運動とは言えないが、それを否定していると、純粋であるには、いったいどうしたらよいかという迷いが出てきて、どこまでいっても本物にぶつからないということになる。だから一応そういう運動でもいいから実行して、五回、十回と重ねているうちに、皆本当の活元運動になる。一人一人の場合、できるだけ天心になってやるということを守ったらいい。

 活元運動は自分で意識しなくても出る。特にヒステリーなどの人は激しく出る。この間の山口の活元会の時にも、唄を唱って踊り出した人がいた。「頭の悪い人はこういう運動が出るんだ」と言ったら、その次にはおとなしく森閑としていた。そういう表現はいろいろあるだろうから、指導者が適当に按配すればよい。しかしそれが利き過ぎると上品になって動かなくなってしまうので、気をつけねばならない。

 潜在意識で活元運動を歪めることがあると同じに、潜在意識で動かなくなる場合もある。だから潜在意識の焦点というのも難しいが、まあ、蛙は跳ねるし、蛇はニョロニョロするしで、それもその人達の現れなので、それはそれでいい。しかし、気持ちを掃除出来ないままでやられると後が困る。憑きもののようになることもあるが、みんな潜在意識の中にある要求。そういうものを掃除すると何でもないのだが・・・。

 だから活元運動をやって、そういうものが沢山出てくるというのでは困るので、私は一人一人観て、これは大丈夫と思うところでやり、大丈夫でない人はあらかじめそれに対する予防手段を講じるというようにしているが、まあ普段でもヒステリーの人が一番賑やか。頭の中にあることをパーッと喋り出す。要求だから喋るだけ喋らせてしまえば丈夫になるが、大勢の中で家庭の事情をみんな公開するというのはいいことではないので、それはとめる。

 だから、活元運動を誰彼構わずやるということは、私自身も警戒している。顔を観て、まあ常識ありと思われる人か、途中でそういうことが起こったらとめるということができる指導者がいるという前提で人に勧めることにしている。』

 冗長になってはと思いましたので、原文のままではありませんが、このような現実と、このような野口先生の姿勢があったようです。野口先生は気合いや催眠療法・心理療法から入っている方ですので、このような事態があっても対処できる自信がおありだったのでしょう。野口整体では、活元コンサルタントという形で認可された人達のみが活元運動を指導しているようですが、亀井先生が最終的に活元運動を取り入れなかったのは、こういう状況があったからなのでしょう。

 野口先生が仰っているように、錐体外路系の運動=潜在意識ではないだろうと私も思っていますが、現実にはこのように、その人の潜在意識が表現されて出てきたりすることはあるわけです。これをきちんと識別して、切り離せる眼と技術、またはそれが自ずと分離するのを待っていられる経験の深さなどがないと、確かに指導する側の問題とすれば、死活問題になるほどのことですよね。

 私が思うに、要は目的が何なのかを常にはっきりさせておかなければならないのではないでしょうかね。活元運動は、悪いものを食べたらサッと吐ける、危険を感じたらサッと避ける、熱を出すべき時はサッと出すといった、錐体外路系の敏感な体を作り上げるための方法であり、それ以外の何ものでもないと思うのです。瞑想に関しても、私自身は瞑想には目的などないのだということを悟る(?)のが瞑想の目的なのではないかと、密かに感じているのですが・・・。

 魔境といったステージ(領域?)があるだろうとは、私も感じます。一般に超能力といわれている状態(私は異能だと思っていますが)もあるでしょう。私自身、はっきりと実感したり把握したり出来ているわけではありませんが、これらの問題には、無意識に持つその人の要求、無意識に持つその人の自分の存在に対する自信の無さ、無意識に持つ恐怖や不安などが、非常に絡んでくると感じています。

 ことに無意識に持つ死に対する恐怖・生に対する信頼感の無さは大きいと思っています。野口先生などは、「出血に対する恐怖が無ければ、出血多量で死ぬことなど無い」と言い切っていますから、恐怖や不安というのは、人の生死にとても関連の深い根深い問題なんだと思います。そして、これがあるから、病気も治んないんですよね。

 「錐体外路系は知らないで使うと害がある」という亀井先生の姿勢は、錐体外路系と潜在意識の領域をきちんと識別・区別出来ないままそれを用いると、非常に害が大きいということなのではないでしょうか。そして、本当にその通りだと思いますし、この言葉は私自身には、非常に重大な有り難い一言となりました。人に活元運動を勧めるのにある種の抵抗感をいつも感じていたのですが、それが間違いではなかったと確認できたし、安易に勧めることの害を、これからはきちんと認識していようと思っています。魔境については、いいように誤解している可能性があるので、そうであったら指摘して下さい。

 では、また。            らくらく

940/946 BXH02240 らくらく 「 活元運動と潜在意識」(10) 99/04/17


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