らくらくさんとのやり取りに刺激され、いままで積んでおいた野口整体の資料を読み始めている。そこで驚くべき発見した。手技療法はすでに体系化されていたのである。
東京治療師会によって、整体操法制定委員会が設立(S18年12月)され、野口晴哉(精神療法)先生を委員長とする13名の委員によって、昭和19年7月に手技療法の基本形が決定されている。13名の委員は以下のとおりである。
梶間良太郎(脊髄反射療法)、山田新一(オステオパシー)、松本茂(カイロプラクティック)、佐々木光堂(スポンデラテラピー)、松野恵造(血液循環療法)、林芳樹(健体術)、藤緑光(カイロプラクティック)、宮廻清二(指圧末梢療法)、柴田和通(手足根本療法)、山上恵也(カイロプラクティック)、小川平五郎(オステオパシー)、野中豪策(アソカ療法)、山下祐利(紅療法)
これは整体操法読本、巻1〜巻4(著者:野口晴哉、S22年印刷)にまとめられ、今これを読んでいる最中なのだが、特に巻1の「総論」を読んでいると、手技療法の基本原理はこの中に充分に語りつくされているように思える。手技のバイブルといっても良い。だが不思議なことに、これは伝承されず、いまだにわれわれはその体系化を模索し続けているのである。
野口整体ではこれを門外不出として公開しなかったのか、あるいは公開しても、狭量な一言居士の治療家達が採用しなかったのか、いろいろ推測はできるのだが、一つの推測として、そして、たぶんこれが一番的を射ていると思うのだが、時代を先取りしすぎていたように思えるのである。野口先生は次のように述べている。
『生命に対する今までの科学的研究の非科学的なるを指摘し、新たなる途につかしむたべきである。分解と分析による物の面からの研究では生命はいつになっても掴めない。・・・自分の為し得ることは治療学としての手技療法であって、医学としての手技療法ではない。
・・・治療ということは今の世に至っても理論よりも実際を重んじ、知識よりも経験によって行われ、最新の学を修めた人よりも老練な経験者が尊ばれるのであります。しかし、最近の世の風潮は実際よりも理論を尊び、経験よりも実験を重んじ、目前の事実よりも活版刷りの数字やカタカナを大切にするので、手技療法を行う人もその風潮にのって解剖生理的根拠のもとに、これを行おうと、いろいろの説をたて、その説によって人間を見、療術を見、生きているはたらきそのものから、形に注意が奪われて停滞してきているのでありますが、・・・
・・・しかし療術というのはその理論によって行われるのでは無く、指の本能的な感覚によって、為されているのでありますから、・・・しかしそれ故に療術が学問的になりきらず、生きた体のうちに遺体的な形のみを観て、その為に動き得ないで、智慧を装ったが、実質の本能のはたらきによって行われる理論以前の力を失っておらないことが判ります。この点、理論から出発して工夫される治療行為とその出発点が異なるのでありまして、療術の理論は療術を行う人の考えを知るためのもので療術そのものの理解の材料にはならないのであります。』
昭和22年厚生省によって療術行為は非科学的のレッテルを張られ、昭和30年以降は禁制されるという政策が打ち出された。そのため手技治療家達はこぞって手技を科学にしようと計った。我が師亀井先生もその一人である。それは時代の要求でもあったのである。このため野口先生の極論すれば「非科学的で良い」という考え方は手技治療家達から敬遠されたのではないかと思う。
しかし、私はこの野口先生の考え方に共感を覚える。手技は科学としてとらえるのではなく、芸術としてとらえるべきだと#613でのべ、#614では「科学的思考の盲点」について述べたが、そこで私が述べたことは野口先生の説を補強していると思える。ここでは、さらに別の観点から「科学的研究の非科学的」なことを指摘し野口先生の考え方の後押しをしようと思う。
話は飛ぶ。坪田愛華ちゃんという小学6年生の女の子が環境問題に真っ向から取り組み「地球の秘密」という、A4版33ページのマンガを遺した。それは、とても小学生が描いたものとは思えないほど良くできている。
地球46億年の歴史、自然界の絶妙な循環とバランス、海洋汚染、酸性雨、オゾン層の破壊、熱帯雨林の喪失、国際間協力、ゴミの減量化、市民運動などを、ビジュアルに、鋭く、わかりやすく説いて、その解決を心からうったえている。構成もこれが小学生の成したことかと思うほど良くできている。(http://www.wnn.or.jp/wnn-n/magazine/100/more.html)
愛華ちゃんはこれを1991年クリスマスの夜に書き上げ、その数時間後、突然の小脳出血で倒れ、翌日帰らぬ人となった。二日前に単身赴任のおとうさんに、おこづかいを使って会いに行っていた。物語の中で地球の精のアース君が全てを語り終えると消えてしまうが、愛華ちゃんも語り終えて消えるように天に帰っていった。これを書くために生まれてきたような子だった。
この「地球の秘密」は1992年6月に初版され、その感動の輪は日本をこえて世界に広がり英語、中国語、アラビア語、ハングル語などの各国の言葉にも翻訳され、今なおこの本を手にする人は増え続けている。1993年6月愛華ちゃんは「国連グローバル500賞」を子供として初めて受賞している。
この「地球の秘密」の中で、愛華ちゃんは「ぐるぐるめぐり」という言葉を使って地球の大気や水の壮大な循環のことを述べているが、私はこの言葉に出会い衝撃を受け、そして感動した。海洋や大気や食物などの連鎖を「循環」と表現したのではその本質は理解できない。「めぐる」と言う言葉で初めて「地球の秘密」を理解できるのである。「めぐる」ことは「めぐみ」を与えてくれるのだから。言霊はいみじくも語ってくれていたのである。それを愛華ちゃんは教えてくれた。
「めぐり」「めぐまれる」という視点で今日の環境問題を見れば、野口先生の「科学的研究の非科学的なるを・・」という側面が浮き彫りにされる。DDT、PCB、フロンガス、ダイオキシンなどは今日では環境汚染物質として製造を禁止されているが、そうなるまでには長い長い時間を必要とした。
例えばDDTなどは30年前、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」でその危険性を指摘したが禁止されず、その後10年間にわたって使い続けられた。またシーア・コルボーン博士は「奪われし未来」の中で、ダイオキシンなどの環境ホルモンといわれる内分泌攪乱物資が、胎児の脳の発育を阻害していることを警告しているが、いまだに因果関係をハッキリと検証できず、したがってその学説は学会には受け入れられず呻吟している。
このような、もともと地球になかった新しい化学物質はすでに87,000種類が世に出されたそうである。そして毎年8,000種類が新たに生み出されているそうだが、そのなかには限りなく環境に害があると疑われる物質も含まれている。すなわち地球がその循環により浄化できるかどうかわからない物質である。しかし、その有害性がハッキリと証明されるまでは、それらは禁止されることはないのである。
「科学的根拠が無い」というのが理由で禁止を阻んでいる。それらが作られた当初はDDTは夢の殺虫剤、PCBは夢の潤滑油、フロンガスは夢の冷却剤といわれたのである。人畜無害がうたい文句だった。実験室で成功したのだから安全だというのである。したがってそれらが安全でないというのならば、その科学的な根拠を示せ、その証明がなければ禁止する必要はないというのである。
しかし、それは1ピコという一兆分の一グラムという測定器の感度ぎりぎりの値の問題でもあり、計測の結果がノイズなのか真実の値なのか評価が難しく、また、環境をとりまく問題の複雑さゆえ、正しい評価が下されるまでには10年ぐらいすぐにたってしまう。その10年間の間、疑わしくても、その物質は使い続けられることになる。かくして、PCB、フロン、ダイオキシンなども、疑いをかけられながらもなお使い続けられ、その為に被害者が続出し大きな社会問題となってようやく禁止されにいたったのである。
どこかがおかしい。何かが狂っている。悪いかどうかが良く判らないなら「使わない」というのが本当だろう。しかし、環境に悪いかどうかが良く判らないから「使う」というおかしな思考方法になっているのだ。ここにニュートン流の科学的方法論の矛盾が露呈している。すなわち科学的思考法そのものに問題があるのである。
ニュートン流の科学的思考とは線形で、閉鎖系で、要素還元的ということだが、言葉を変えれば予測可能で、実験室の成功が真理で、物事の本質は細分化することにより突き止められる、という考え方である。この閉鎖系の考え方に問題がある。つまり実験室で成功しているなら「真」で、そこで証明されなければ「偽」であるという考え方が悪いのである。このため実験室が環境に優先することになり、環境汚染の疑いのある化学物質も実験室で成功したので問題なしとなってしまう。この考えのもとでは一部分さえよければ全体は問題ではないという考えにも帰着する。
一部分さえよければ全体は問題ではないということはガン細胞に似てはいないか。たとえば胃ガンは胃の細胞が胃の働きをせずに、勝手に自己増殖する異形成によってもたらされるが、ガン細胞にとっては全体のバランスなど考えることはないのである。自分たちだけが増えていきさえすればよいのだから。その増殖によりやがてその主人である体は死にガン自らも滅ぶ。人類はニュートン流の科学思考法により地球にとってのガン細胞となった。そして地球を瀕死の状態にまでおいこんで行き、自らも滅びようとしているように思える。
何が不足しているのか。「めぐる」ことが「めぐみ」を与えてくれると教えてくれた愛華ちゃんの智慧である。「めぐる」ということは、すべてのものは関連していると考えることだ。つまり閉ざされた実験室の環境ではなく、どこまでも開かれ解放された環境の中で、どんな些細なことも影響しあっていると考えることだ。この考えのもとでは少しでも環境を壊す恐れのある化学物質などおいそれとは作り出せなくなる。この考え方こそ非線形で、解放系で、形態的なカオス理論に基づく新しいパラダイムなのである。
科学者達がその知識を積み重ねても達しえなかった本質を見抜く智慧を小学生の愛華ちゃんはもっていた。学識深い科学者達は小さな女の子に負けたのである。ここに知識のおよばない智慧がある。それはどこからもたらされるのか。「めぐる」ことが「めぐみ」であると語源を一致させた古代人の智慧、現代人が忘れていたその智慧を思い出させてくれた愛華ちゃんの洞察、その必要性を半世紀前に説いた野口先生の英知、この共通するところは直観の力を働かせていることだ。
科学は科の学である。科とは稲を束ねて数えるという意味だそうである。一束一束数えるといういう意味から、分類の条目をあらわす意に用いられるようになったという。それは細分化することより本質に迫ろうとする方法である。しかしそれだけでは片手落ちとなる。本質にせまるにはもう一つの方法が必要である。それが直観といわれる、ズバリ本質を射抜く能力である。今日の科学はこの分化の智慧のみを発達させた。その結果は環境を汚染し地球を破壊しようとしている。今必要なのは全体を丸ごと容認し、そこから本質にせまる直観の力を発達させることである。それを行わなければ文明のバランスは保てない。それを発達させなければわれわれに明日はない。
野口先生は戦前からそのことを「本能」という言葉で説き続けていたのである。
『・・・それ故整体操法の行われる真の理由は、刺激と反射のうちに脊髄反射のうちに又大脳反射のうちに無いのであります。オステオパシーやカイロプラクティックの原書のうちにも経絡の図の中にも無いのでありまして、ただ人間の生きているそのもののうちにあるのであります。その真の理由は誰も知っていないのであります。ただ人間の本能の裡にあるはたらきだけが之を感じ動いて、手で体を整えることを為してきたのであります。手で体を整えることは矢張り自然の妙機と考えねばならないのであります。
・・・つきつめた一点を「ただその息一なるのみ」と申すのであります。相手と自分の息を合わせるのでも無ければ、自分と自然の息を合わせるのでも無く、ただ息一つになることに治療の原理があるのでありまして、この点、私は生物学者のいう適応という言葉のうちにも息合わぬものが合わせているように感じているのであります。
人間本来の生き方は適用によって生きるのではなく、内も外も環境も個性も一つになって生きることだと感じているのであります。刺激と反応というように対立しないで一つになる時、生命は生き生きとはたらき出し、われわれはそれを操法の裡に活かすことが出来るのでありまして、操法を実地に行う時には自分とか他人とか、自然とか人間ということが無くなって、ただ息のみにならねばピッタリ適うということは出来ないのであります。治療技術というものが頭の学問になりきり得ないのはこの一点の問題があるが為です。「整体療法という生命に対する技術の原理」としてこういう問題を説くのも又その故であります。』
新しい時代はこのような智慧を必要としている。
946/ QZW02663 ビーバー 1均整師の見た野口整体−科学について−(10) 99/05/06
参考:ネットワーク『地球村』「http://www.chikyumura.com/」