1均整師の見た野口整体−感受性−

  野口整体にあって均整法にはない感受性という概念がある。これも治療上で非常に重要な概念だと思っている。

  『・・・操法は感受性によって一つの刺激としてはたらくのであるといえる。それ故手技療法は、人の感受性を利用して自然良能を促進せしむる手指の技術ということが出来る。( 整体操法読本 巻一)』

  かつて私が学んだ経営学ではマネージメント・サイクルというものを説いていた。

  というもので、マネージメント・サイクルは経営の三要素、Plan、do、Seeは計画、実行、統制などという阿呆な訳されかたをしていた。これはこのまま英語で使うか、そのまま訳して、考える、行う、知る、とした方がよっぽど気が利いている。漢字を使うことで権威づけたつもりなのだろうが、この訳では本質的な意味が分からなくなってしまっている。

  これは、経営のサイクルだけではなく、生命が持つ基本的なサイクルなのだ。そこで私は生命体サイクルと言い直している。こうすることで、このサイクルの本質が良くわかるようになる。生命はこのサイクルにより行動し、適応し、生きているのである。

  つまり、考えて、それを行い、その結果を知って、最初に考えていたことと一致すれば、そこでこのサイクルは終わりになるが、一致しなければ差異を見いだし、その差を埋めるために更に考え、実行し、結果を見て・・・とくり返すことにより生命が営まれているのである。この営みが無くなった時にその命は終わるのである。このサイクルの有り無しが生きていることの証といえる。適応活動もこの営みによって生まれる。

  また、経営学ではこの三つの要素のうちPlanを重要視し、その精度を上げることで経営の質が向上すると説いているのだが、これも阿呆な主張である。なぜなら、Seeがしっかりとおこなわれ、どんな問題が起きているのかが分からなければ計画の立てようがない。Seeをないがしろにした解決法はめくら滅法に打つ鉄砲のように的に当たることはないのである。生命体においても然りで、PlenはSeeの結果によって生まれるものなのである。Seeとは感受性にほかならない。

  『・・・生物の存在が外界の動きを刺激として感受し、之に適当なる反応を呈し、もって適化適応することによって保たれていることに就いては議論の余地はありません。・・・生きているということは個性とその周囲の関係に始まり、生きている体はその周囲から不断に刺激を受け、空気、光線、磁気、食物、温度等々、整体の周囲の変動はすべて感受性によって刺激となって影響し、その反応を誘い、その反応の為に生じた変動が刺激となって次の反応を喚起し、又新しき影響が加わる時はもとより、加わっていた影響が弱くなっても、強くなっても、又無くなっても、そのことが刺激となって又別な影響となり反応を誘い、之が繰り返されて生体の生活現象が生ずるのでありまして、したがってその感受性を失えば外界の変動裡に適化適応出来ず、外界の変動を刺激作用として反応を呈し得ず、為に生活の根底を失い、その生を全うすることが出来なくなるのであります。』

  したがって感受性は、操法を行う者にも、それを受ける者にも重要な問題となる。操法を行う者は、どこにどれだけの虚実があるのか分からなければ手の下しようが無いわけで、感受性が鈍ければこの虚実はわからない。これがわからなければ治療の方針を決めるplaning(診断)もできないわけである。また感受性が鈍ければ、ある刺激を入れてもその刺激がどの程度効いているのか、効いていないのか、効いていてもどの時点でその刺激を打ち切るのかといったことがわからず良い治療などできっこない。

  また、それは操法を受ける者にとっても重要な問題となる。同じ操法を行ってもある人には効き、ある人には効かない、ということが良くあるがこれも感受性の問題である。治療師となって間もない頃、良くこの問題に悩んだ。効果が出ないと自分の操法の未熟のせいにしていたのだが、これは操法が悪いのではなく、相手の感受性に問題があったのである。私に問題があるとすればその感受性の差が読めなかったことだけである。操法そのものが悪いわけでは無かった。受ける側の感受性が悪れば刺激の効き方にも影響が出るはずだと分かったのはこの文章を読んでからのことである。しかし逆のこともいえる。効いたということは腕が良かったから効いたのではなく、相手の感受性が良かったからだともいえるのである。均整法に感受性の概念があれば、いろいろ悩まずに済んだかもしれない。

  感受性の重要さは以上のことだけにとどまらない。生命は感受性によって世界を見ている。感受性を豊かにするということは、われわれの物の見方、考え方が変わり、その結果、行動まで変わるのである。

  私は鉄腕アトム世代の人間である。そのせいか科学には常にあこがれを抱いていた。だから均整師になってからも、気とか経絡とかいうものには少なからぬ疑念を抱いていた。しかし、#614のコメントにも書いたが、治療を初めて数年もすると、手の感覚が以前より鋭敏になって、卒業したての頃はよく分からなかった異常箇所が苦もなく感じられるようになってきて、時として手を直接ふれなくても感じてしまうことさえある。それとともに気は自然に感じられるようになって、それをコントロールすることにより体に改善が見られるといった体験をすると、その存在はより確実なものとなった。

  この結果、この世界を見る見方が変わってきた。目に見えない世界の存在に疑念を抱いていたのだが、今ではそうした世界のあることが当たり前のこととして感じ取れるようになった。すると今度はその見えない世界を前提に物事を考え行動するようになった。治療師となり感受性が豊かにならなければこうした変化はなかったことと思う。

   こんなことから推測すると、わたしたちひとりひとりはそれぞれが別の世界を見ているのではないかと思ってしまう。だから、たけしの何とかバトルというテレビ番組で、例えば空飛ぶ円盤があるとか無いとか、霊がいるとかいないとか、という論争しているが、これなども、おたがいが感受性の違いによりそれぞれが別々の世界を見ているのだから、論争してもはじまらないのではないかと思ってしまう。例えば霊がいるという人も、その人には感じるのだから正しいのであり、無いという人もその人には感じられないのだから、これもまた正しいのではないだろうか。これでは論争がかみ合うわけがない。われわれは一つの宇宙に住んでいるのではなく、感受性の違いにより一人一人がそれぞれ違った自分の宇宙を持ち、そのいろいろな宇宙が寄り集まった多元的な宇宙を生きているのかもしれない。

  話を飛躍させすぎたが感受性は個人差があり成長すると考えた方がよさそうである。聞、触、見、味、嗅という五感のレベルでの触覚一つをとっても、手の感覚の成長があるのだから他の感覚すなわち聞、見、味、嗅でも同じことは考えられるはずである。そしてこの五つの感覚がより精妙な世界を感じられるようになれば、この世界は居ながらにして別世界となるのではないだろうか。

  『・・・整体操法を行う人が指に気を集めて使っているとその触感は著しく鋭敏になるものであることは申すまでもありませんが、ただ一時敏感になるだけで無く、行気して指を使うことを永くしておりますと、指の形も動きも変わって触覚そのものが発達するのであります。・・・それ故、気の問題は学問的にはならないのでありますが、もしこのことを正当に認められるときが参りましたら、私は生命に対する学問の進歩を認めます。

  活元運動やヨガや禅は五感をより精妙な世界へいざなう為に行われるのだと思う。

947/ QZW02663 ビーバー 1均整師の見た野口整体−感受性−(10) 99/05/08


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