厚生省から均整法や手技療法は科学的でないと言われた。たしかに、世の中では科学が絶対視され、「科学的」と「正しい」は同義としてあつかわれている。そして「近代科学の方法論」は真実を究極する最良の方法論だと信じられているが、はたしてそうだろうか。
もうずいぶん前のことになるが、何気なく深夜番組をみていたら、フロッピーディスクの発明者で世界的な発明王といわれるドクター中松が永久機関を発明したと話していた。画面の中では、動力がどもにもついていない薄い円盤が宙に浮いて回っていた。真偽のほどはわからない。しかし、話したかったのはこのことではない。その話のなかでドクター中松はアインシュタインの理論を否定したというのである。アインシュタインはこの世の中にエーテルは存在しないことを実験で証明したが、中松氏はアインシュタインと同じ装置を使い、同じ実験をしてエーテルが実在することを証明して見せたのだという。違っていたのは測定器で、アイシュンシュタインが使ったのは50年前もの、中松氏が使ったのは現代の高感度の装置で、そうするとエーテルの存在は測定器に反応するというのである。
この話の真偽のほどはわからない。しかし、次の「科学は測定器の限界に支配される」という中松氏の言葉は印象に残った。さらに氏はそうした測定の限界外にある未踏の世界も対象にしなければ、すなわち未踏科学なる分野をうち立てなければ真実は探求できないと言っていたが、なるほど測定器の感度の限界が科学の限界というのは充分考えられ、未踏科学の提唱も理解できる。
先に手技は客観化しづらいと書いたが、手技には測定の困難さが常につきまとっているからである。事実、手が感じているものを機械は感じない。今までは機械が感じないから、手の方がおかしいと考えられたが、しかし、それを関知できない機械の方が悪いので、手の方が間違っていたのではない。「気」の存在も既存の測定器には反応しない。であるならば「わからない」と言えばいいようなものを、それを「測定できないから気は存在しない」というのは、科学の横暴といえるもので、それこそ科学的態度ではないだろう。
次の文は『超能力と気の謎に挑む:天外伺朗著』「科学者も人の子」の一節よりの抜粋である。『科学者といえども人の子です。科学者といっても、趣味や道楽で研究するわけではなく、しかるべき研究機関に勤務して、給料を貰わなければ生活できない。つまり、社会が認め、世間が注目し、工学的応用の期待できる研究テーマを選んだほうが、就職先も多く、給料も高く、いい人生を送れるのだ。
私はなぜか科学者という人間が薄汚なく見えてきた。人類の将来のために松明をかかげ、未知に挑み、真理を解き明かしてくれる聖者のような人たちかと思っていたが、我々と同じく生活のためにあくせくと働くサラリーマンのようなものなのか。「日本で気や超能力の研究者に給料を払う研究機関はほとんどゼロに等しいでしょう」。・・・「迷信」というレッテルが貼られ、タブー視されるような研究テーマからは、皆コソコソと保身のために逃げ出してしまうのか。真理の探究、などど格好の良いことをいっても、所詮、日本はエコノミック・アニマルの国なのか。とんでもネエ話しだ!』
確かに、科学的な真実というものは科学者の数やデータの量によっても左右されるようである。手技の科学化を阻むもう一つの要素に、客観化にともなう困難さが上げられると言ったが、その理由の一つには手間がかかり、科学化のための地味なデータが取りにくいということがあげられる。あえてそれをすると、たちまち生活できなくなる。われわれにデータをそろえ研究するゆとりはないのである。
かっては均整師会も、すでに故人となられたが早稲田大学の伊藤秀三郎博士のご指導により、均整医学会を組織し、研究した成果を毎年発表していた。当初は運動系の医学を世間に発表することにより、その認知を得ようというのが目的だったが、その効果が期待できず、研究も貧弱な為、しだいに、われわれ自身の科学的思考のトレーニングの為に行われるようになってしまった。それでも研究はつづけられていた。
例えば、調整前と後の足圧の変化を計るとか、股関節を調整することにより骨盤→頭骨が変化するというのならば、その結果は脳波にあらわれるはずだと、脳波計をもちいて変化を観察したりしていた。しかし、そうするとどうなるか。精度を上げるためにはサンプリングの数を多くしなければならないが、それをすればするほど治療ができなくなる。とても治療の合間に行えることではない。頭に電極をつけることだけでも10分や15分はかかるのだ。
西洋医学の研究者ならば基礎研究を続けようとも、臨床にたずさわる医師より贅沢はできなくても生活してゆくのに充分な収入を得ることができるだろう。しかし、われわれが基礎研究をしようとするとたちまち生活に行きづまり、困窮する。われわれ以外に均整法のようなマイナーな分野を研究する物好きはいないので、いつまで立ってもデータはそろわず、したがって科学からますます遠ざかる。
真理を探究するのが科学というのならば、その探求は方向は全方位に向けられていなければならない。しかし、特定のものだけが対象となっている。それは金が儲かるからとか、地位や名誉が得られるからといった、人間的な欲望の側面に左右されるのだ。天外伺朗氏でなくとも「何が科学だ」と叫びたくなる。
上記の「測定器の限界」も「人間の欲望」もいわば科学の側面の問題提起だが、次は科学の方法論そのものの問題である。均整や手技療法をふくめた東洋医学は科学的ではないといったが、新しい科学の方法論のもとで、それはもっとも最先端の医学となる。それを可能にするのがカオス理論である。
最初に「カオス理論」という耳にしたのは映画のジェラシックパークを見ていた時である。物語の中でマルカムという黒ずくめの数学者が次々と起るシステムの崩壊を的確に予言していた。その時、聞き慣れぬこの言葉に魅了されたので、入門書は無いかと探していたら「カオス-新しい科学をつくる-」(ジェイムズ・グリック 大貫昌子訳 新潮社)が見つかった。読んでみて目から鱗が落ちるとはこのことかと思った。
大変なことが、今、科学の世界で起りつつあるのだ。それはコペルニクスやガリレオやニュートンが地球が太陽の周りを回っていると宣言し証明した天動説から地動説への変化にも匹敵する新たなパラダイムシフトが、今、起ろうとしているのである。「カオス理論」というこの耳慣れない理論を知る人はまだ少ないと思うので、無謀を承知でその本を参考に、あえて説明してみることにする。
カオスの初期の発見者の一人にエドワード・ローレンツがいる。1960年代の終わり頃、彼はコンピューターに12の方程式を入れて「おもちゃの天気」を作り出した。そのローレンツのコンピューターの中の天候は、入力する初期値が同じならば、1時間後も、数日後も数カ月後もおなじになるはずだった。しかし、時がたつと天候のパターンは最初のものとは似ても似つかほどずれていったのである。
なぜずれが生じたのか。いろいろ調べた結果、初期値に問題があることがわかった。コンピューターのメモリーの中には0.506127という6桁の数字が記録されていたが、紙面の節約のためにプリンターには0.506としかうちだされていなかった。だが千分の一なら大した誤差ではないと考えたローレンツは、四捨五入して短くした数字を打こんだのである。
ここで、大切なのはこの数字の誤差である。例えばわれわれが快適とする温度は20度前後だが、その温度が20.506度でも、20.506127でも大差はないと考えてしまいがちである。.5度とか.6度とかの10分の一以内がわれわれの興味の範囲である。それを、千分の一以内に表記できれば上出来であり、なによりも、そのようなわずかな誤差を関知する測定器はないのだからローレンツのしたことはきわめて妥当なことだったのである。しかし、結果としてローレンツの12の方程式の系では、わずかな誤差が「大変異」をまねくことになったのである。
科学を支配しているのはニュートン流の決定論である。つまり「ある系の初期条件がほぼ正確にわかっており、それを支配する自然の法則さえわかっていれば、その系の近似的なふるまいを計算することができる」という主張で、これこそ科学思想の中核をなす前提である。
ある理論家は学生を前にしていう。「西洋の科学の基礎をなす考えとは、たとえば諸君が地球上で玉突き台の上の球の運動を説明しようとしてきるとき、ほかの銀河系にある惑星上で木の葉が一枚落ちたなどということまで、考えに入れる必要はない。つまり非常に微小な影響は無視してかまわない。物の働きには『収束現象』というものがあって、ある小さな影響があるからといって、それがふくれあがって多大な影響をおよぼすことにはならない」。これが科学を支配しているのはニュートン流の決定論である。しかし、カオス理論はこの考え方に激震をあたえたのである。
ニュートン流の決定論では、わずかな誤差は収束現象により収束され問題にはならないと考えられていたが、この初期値の誤差が100万分の1であろうとも、1000万、1億分の1であろうとも変わらなく変化は現れる。カオス理論の始まりとなった、この「初期値に対する鋭敏な依存性」は、後に「バタフライ効果」と名づけられた。「北京の奥地でバタフライ(蝶々)が羽を動かして空気をそよがせると、来月のニューヨークでの嵐の生じ方に変化がおこる」という考えからきたものである。
ローレンツの発見は理路整然とした、秩序(コスモス)の世界だと思われていた純粋数学の世界のうちにも混沌(カオス)が現われ予測不可能となる場合もあるということがあきらかとなった最初のケースである。
秩序の世界と思われた数学の世界に無秩序 = 混沌(カオス)が現れることをローレンツが発見したが、それが契機となり様々な発見が相次いだ。それらは皆驚異といえるものばかりだが、1979年にマンデルブロが発見したものはひときわきわだっていた。それはカオスを学ぼうとするものは必ず見ることになる、ひょうたんの様な形をしたマンデルブロ集合である。
それは、極彩色の荘厳な寺院が珠玉に移っていて、その写っている珠玉の中にも荘厳な寺院があり、その珠玉の中にも・・・・と永遠に続く、仏教の華厳教の世界さながらに、マンデルブロ集合の境界面をどんどん拡大してゆくと、小さなマンデルブロ集合がもとの集合とは微妙に違いながら、そのこともわからないほど細部まで完璧なマンデルブロ集合の形が現れくる。さらに拡大すると3世代目、4世代目のマンデルブロ集合が現れて、それが永遠にくり返される集合である。
宇宙は始めがあり終わりもあり有限だが、マンデルブロ集合はどんなに小さくしていっても、あるいは大きくしていっても果てしなく続いてあらわれてくる。文字どおり無限に変化をしてゆく形なのだが、それが単純な複素数の式を、複素平面上にコンピューターにより描いてゆくことによりあらわれてくるのである。単純な式から複雑な無限の広がりが生み出されてくるのである。
しかし、驚くべきはそれだけではなかった。複雑な形の内に隠れて、それを組織している構造があったのだ。ここから自己相似形→フラクタルという概念が生み出されたのである。
自己相似形とは部分を拡大すると全体と同型になっていることであり、フラクタルとはその自己相似形を内包している形のことである。そして、ついには「フラクタル」という言葉は、雪の結晶から銀河の不連続な塵埃にいたるまで、不規則で断片的でギザギザで破片的な形を考え、計算し、説明する方法を表す言葉となった。
秩序などとはおおよそ縁のない不規則な一連のデータの中に思いがけない秩序性がひそんでいたのだある。気まぐれな数の中に法則があったのである。雪の結晶やシダの葉の形のような、自然の複雑さを内包した形もその断片さえわかれば、単純な数式でつくりだすことが可能になったのである。さらに、それは図形の世界にとどまらず、変動を表すグラフにも応用できる。
例えば、株価の変動を例に取ると、株価の変動は予測もできないでたらめなものにはちがいないが、そのような変動を表す曲線は規模に関係なく、日毎の価格変動の曲線と月ごとの価格変動の曲線がぴったり合っていて、さらには時間ごとの変化もぴったり合うのである。マンデルブロ流の分析によれば、二つの世界大戦と一回の不景気を通ってきたあの不安定な60年間の間、その変動の度合いは全く一定だったというのである。
株価の変動、雲や大気の流れ、寄せては返す波の形、野生動物の個体群の変動、心臓や脳の振動などの中に生じる乱れ、一つとして同じ形のない雪の結晶、稲光の進路、毛細血管の微少なもつれ、消耗もせず移動もせず巨大な嵐のように渦を巻く木星の大赤斑、銀河星団の固まり等など、見るからに不安定で予測を許さない不規則な自然の側面は、従来の科学にとって解けない謎であり、悪くするとえたいの知れない化け物のような感じでさえあった。
しかし、化け物のような世界は秩序ある無秩序というべき世界だったのだ。自然はそれ(自己相似性)を利用して無限の複雑さをつくりあげていたのである。マンデルブロは混沌の世界の中に秩序を発見したのである。
1980年代になって「無秩序というもの」を理解する道が発見されてからすべてが一変した。今や実験室で化学反応を研究する者、野外実験で昆虫の個体数を迫う者、あるいは大洋の温度変化をモデル化している学者、生態学者や伝染病学者たちは、古いデータを掘り出しはじめ、決定論的カオスを見つけはじめた。それはニューヨーク市の麻疹の流行の記録にも、ハドソン湾会社のわな漁師が200年間にわたるカナダの大山猫の個体群の変動記録にも現れていた。ローレンツの発見からニ十年、物理学や数学、生物学、天文学・・・さまざまな学問の学者たちは新しい学問の世界を開拓しはじめている。
カオスは何を変えたのか。カオス理論はそれまでの科学の概念であった線形を非線形に、還元主義を形態主義に、閉鎖系を開放系に変えたといえる。
今までの科学(近代科学)の方法論は
『1 誰が観察しても、まったく同じ結果が得られるように客観的で普遍的な観測方法、実験方法を工夫する。
2 過去に知られている観測結果を矛盾なく正確に説明できる、なるべくシンプルなモデルないしは理論を構築する。
3 これから行う観測の結果を、そのモデル(ないしは理論)で確定的に予測し、結果と比較することにより、モデル(理論)の正当性の検証をする。(したがって、結果を予測できない理論やモデルは研究の対象外となる。』(超能力と気の謎に挑む:天外伺朗著)である。
だが、「誰が観察しても、同じ結果が得られる」というが、すでに述べてきたように均整をふくめた手技療法は人により経験により同じプロセスでも同じ結果が得られるとは限らない。したがって従来の科学からは非科学的と結論づけられたのだが、カオス理論にしたがえば「初期値に対する鋭敏な依存性」からわずかな誤差が大きな変化を生むのだから、これは同じ結果が得られないのは当然なことなのである。
また、「なるべくシンプルなモデルないしは理論を構築する」というが、そうした還元主義的な、できるだけ単純なものに還元して理解しようとする方法、森を見るのに木→枝→葉→葉脈→細胞というような方法では、自然の複雑なふるまいは説明できないと分かってきたのだ。それに対し形態主義という、同じようなパターンの共通性で理解しようとする方法が台頭してきた。森の全体的な形や枝の形の共通性で理解する方法である。今、科学は森を全体から見るように要求しているのである。これは人間を全体から理解しようとする東洋医学の方法論そのものではないか。
また、「シンプルなモデルを構築する」というが、実験室や試験管などの、観察の対象物を自然の複雑なつながりから切り放し、もっとも単純な関係において理解しようとする、閉鎖的な環境下の観察では限界があることが明らかとなった。すべての存在は大なり小なり関係の中に成り立つ。一輪の花でさえも全宇宙と密接な関係をもっている。したがって真実を知ろうとするならば、すべての関係を考えに入れるような開放系で考えなければならないのである。
やっと結論に達することができた。言いたかったのは次のことである。例えば「腰仙関節の一点に刺激をくわえると、骨盤から肋骨、頭骨(頭の形)がすべて整うと(一点操法)」と均整法ではいっているが、こうした主張が厚生省をして「非科学的で荒唐無稽」といわしめたのだと思う。たしかに古い科学の方法論のもとでは荒唐無稽となる主張かもしれないが、カオス理論のもとでは充分な根拠を持つことになるのである。
このフォーラムでも寂動正体療法の上村巌先生が「胸鎖関節の矯正」の重要性を強調し多くの疾病はここで治せる、と言っておられるが、一見、奇異に思える上村先生の主張(われわれには違和感なく思える主張だが)も、人体を200余の関節というユニットで構成されるシステムとみなせば、システムを構成する一点への刺激は全体に影響するというのがカオス理論の主張なのだから、しかも、胸鎖関節という主要関節の一つへの刺激なのだから、効かない方がおかしいのである。
今、風向きは変わり、風はこちら側へ吹いてきた。科学的ではないといわれた手技療法だが、それは古い科学(ニュートン流の決定論的な方法論)もとではそうなのかもしれないが、新しい科学(カオス理論)のもとでは、もっとも進歩的な方法となるのではあるまいか。フラクタルの取り方を工夫すれば東洋医学は最先端の科学となるのではあるまいか。カオス理論の研究に東洋医学は格好の研究対象となるはずである。その材料は我々のもとに磨かれざる原石としてゴロゴロある。あとはこの研究にはせ参じてくる人を待つばかりなのだ。
615/QZW02663 ビーバー 科学的方法論の盲点((10) 97/05/13
参考:天外伺朗さんのホームページ「http://www.so-net.ne.jp/TENGESHIRO/」