均整法(手技療法)は非科学的

  パソコン通信をはじめて1年が過ぎたが、最初にダウンロードした10番会議室で見た文章『カイロプラクティック・整体等 被害者救済実害110番−カイロ・整体等無資格業者・撲滅総決起大会−無資格業者の取締りと業権擁護を』(559番−95/11/05 )を見たときのショックがなかなか頭の中から消えない。

  私は均整法という手技療法で治療をはじめて11年になるが、私も無資格業者である。さっそく反論(571番−96/03/18)を出してみたものの、これは私のアイデンティティーに関わる問題なので、以来、無資格ということについて考え続けて今日まできた。いくらか考えがまとまったのでここにUPする。

  まず第一は、均整法(療術などの手技療法含む)は厚生省のいうように「非科学的だ」ということである。この断定は物議を醸すに充分な表現だと思う。しかも、均整法の創始者であり、我が師でもある故亀井進師範の意に背くことにもなることを百も承知した上での結論である。

  亀井師範は療術、並びに手技療法の社会的地位の向上のために科学的であることに腐心してきた。その理由を説明する為には、手技療法の代表である療術師会の法制化への戦いの歴史をふりかえらなければならない。

かっては国が認めていた手技療法

  われわれ均整師やカイロプラクター、療術師といった手技治療家は今日では無資格で治療をすることを余儀なくされている。559番の発言でも言われているように、国や県に認められていない。しかし、戦前は手技療法は国により認められていたのである。

  手技治療家の代表格である療術師は、昭和5年の警視庁令「療術行為取締規則」第一条によって「本令に於いて療術行為とするは(中略)光、熱、器械、器具その他の物を使用し若しくは応用し、又は四肢を運用して他人に療術を為すを謂う」と定められて、その範囲において営業を許されていた。数ある民間療法を統合し療術行為という名前をつけたのも警視庁である。なぜ、警視庁なのかについては、当時は今日のように厚生省という役所がなく、看護婦や保健婦もみな警視庁令によって資格を認められいたからである。

GHQによる東洋医学的治療の禁止

  しかし、日本の敗戦とともに、占領政策遂行の為にのりこんできたGHQが、民主化の名の下に、あらゆる日本的な文化を排斥してゆく政策を実行する。軍国主義の復活を恐れてのことである。その占領政策のとばっちりを受けて鍼灸、按摩、マッサージ、柔道整復、療術といった東洋医学的な治療法は、日本的な文化ということで、全面的に禁止されることになった。

  再び営業を許されるのは、昭和22年厚生省により現行の「按摩、針灸、柔道整復等の営業法」が施行されてからである。この時から、針灸、按摩、マッサージ、柔道整復の技術は医業類似行為として国家資格を持つことになった。

  しかし、療術行為のみは認められず禁止されたままであった。禁止の理由は、1)科学的でない、2)種類が多い、3)玉石混淆、4)業者の素養が低いの4点である。この時から療術師をはじめとした手技治療家の抵抗と苦難の歴史が始まったといってよい。

均整法の誕生と亀井師範の抵抗

  たしかに、光線、温熱、電気、刺激、手技の五種目を治療行為としてあげる療術行為では、範囲が広すぎて、光線療法の科学的証明、温熱療法の科学的証明など、一つ一つを科学的に立証することは困難である。そこで亀井師範は、手技のみに関する科学的な理論の構築をめざして、昭和26年に均整法を誕生させた。

  このことは昭和45年、均整師会の第34回全国講習会での亀井師範の言葉「厚生省の一部の者がわれわれを指し非科学的、荒唐無稽、玉石混交であると説かれたことに対して、われわれは大変憤慨し、改善の為に奮闘して来たのである」とあることからもうかがえる。

  以来、師の不眠不朽の努力は手技療法の科学的体系化の為に注がれた。現在、均整法も野口整体も12種体型という体型の分類法を基準にして調整するが、それも当然で 野口整体の野口晴哉氏も均整法の亀井師範も、当時は療術師会の会員であり、ともに共同で手技の研究をされていたからである。

  昭和39年頃からその歩みを異にするが、大きな理由は癒気や活元を主体とし、今日のいわれる気功や潜在意識をつかった野口整体の方法に、その効果を認めながらも、気功とか潜在意識まで踏み込むと、手技の体系の理論化が困難であり、科学的であることを志したときに、障害になると思ったからだと思う。あくまでも脊髄反射や神経の圧迫といた西洋医学の概念や経絡といった東洋医学の概念をとりいれた手技の科学化にこだわったのでる。

  不眠不朽の努力と書いたが、治療や講演を終えてからの、毎晩2時から3時頃に及ぶ研究や執筆は師の命を縮めることとなった。過労により師は昭和50年11月27日不帰の人となる。享年64歳であった。

  師の努力は手技療法を科学化して運動系の医学として世に認めさせ、なによりも厚生省にはたらきかけて法制化への糸口をつけることだったと思われるが、その末弟子の私が手技は非科学的と結論づけるのは、師に対するはなはだしい不敬でもあるのだが、これは均整法を11年近く営んできて達した私の結論なのである。

科学とは何か

  それでは、科学とは何か、といったことを明らかにしなければならないが、ブリタニカ百科事典で20ページにわたる記載がありながら『科学は世界のすべての事象を対象とするが、人間活動の歴史的産物であるかぎり、そのあり方は常に時代的制約を伴っており、またその時代の科学(あるいは学)のあり方がその時代の世界観を構成するともいえる』と、はっきり結論の出ないままになっている科学の定義をここですることは困難さがともなう。しかし、科学の定義を次のようにすることは、あながち見当はずれではないはずである。

1)論理的統一性があり、

2)客観的であること。

論理的でない、あるいは客観的でない科学というものは存在しないと思うからである。

均整法(手技)は論理的ではない

  均整法(手技)は非科学的といった理由の第一は、均整法(手技)には統一された論理がないからである。手技には様々な方法があり、思いつくままに上げても、われわれの均整法、野口整体、操体法、AK法(アップライトキネシオロジー)、構造医学、オステオパシィー、中国整体、三軸修正法、そして療術等などがある。

  これらの方法には「なぜ効くのか」と言ったことを説明する理論がそれぞれに存在する。均整法には均整法の野口整体には野口整体の操体法には操体法の理論がそれぞれにある。しかし、均整法と野口整体の理論は同じではない。それぞれの手技療法が独自の理論を持ち、それらは少しづつ違っていたり、あるいは大きく違っていたりする。洗練され充分に説得力のあるものから、独創的で斬新なもの、ひとりよがりなものまで、千差万別といっても過言ではない。同じ手技療法といっても、これら手技のよって立つべき理論と方法はそれぞれ違っているのである。

  これを、東洋医学の代表である鍼灸と対比させて考えてみると、私の言う意味が解っていただけると思う。鍼灸には陰陽五行説というバックボーンがあり、この理論にしたがって患者の診断し、治療をするはずである。そして、およそ鍼灸を志す者なら誰でも必ず一度はこの理論を学ぶはずである。

  また、同じ手技でもカイロプラクティックは均整法や他の手技療法に比べて論理的だと思う。なぜならそこには椎間関節の神経圧迫説という現代医学の神経生理学にもとづく体系があるからである。カイロプラクターなら誰でも一度は必ずその理論を学び、それに基づき疾病の原因を考え治療するはずである。

  鍼灸やカイロプラクティックに様々な分派がありながらも基本となる理論は共通しているはずである。しかし、手技にはこれがない。手技者というのは均整師であったり、野口整体の治療家であったり、操体法の治療家であったりするわけだが、均整法の理論、野口整体の理論、操体法の理論はあっても、手技者として、手技がなぜ効くのかといった場合の統一して学ぶ理論はないのである。理論はあっても、一貫し統一された理論がないのでは、めいめいが勝手な主張をしているだけだから、論理性があるとはとうてい言えないであろう。

  さらに細かく見ていけば、同じ均整法の治療家同士でも、その理論には少しづつ違いが見られる。このように、手技の方法によっても、あるいは手技者一人一人によっても、その考え方がばらばらなのだから、ここでも論理に統一性があるとはとうてい言えない。

  また、今まで理論という言葉を使ってきたが、均整法の理論といった場合、それが理論かどうかは疑わしい。理論とは大辞林によれば『(1)個々の経験・事実にある法則性を認め、その法則性のもとに統一的に組み立てた考え。(2)また、原理的に組み立てた仮説。』となるが、(1)の意味ならば理論でも間違いではないだろうが、本来のいみでの理論というからには、仮説を立証して初めて理論といえるのではないだろうか。さらにいえば、それが公に認められてこそ理論といえると思うのだが、均整法の理論といった場合、仮説の立証もしていなければ、公に発表もしていない。これでは理論というより仮説という方が正しいのではないかと思う。これは均整法以外の手技療法(カイロプラクティックは除く)でも同様だと思う。

  したがって均整法(手技療法)は、科学的であるための第一条件である論理的統一性はないのである。

手技には客観性がない

  均整法(手技療法)は非科学的といった第二の理由は、手技には客観性もないからである。西洋医学には客観性がある。例えばある薬をある人に何ミリグラム投与し、その結果を血液検査などで様々な成分の変動をみるといったように、多くのケースは定量化できる。だから、数値データーさえきちんとしていれば、コンピューターにも診断できるように志しているのが西洋医学の方法論であるように思う。もちろん本来はそればかりないはずだが、めざしている方向は客観化であるといって間違ってはいないだろう。

  しかし、均整法(手技)はそうした定量化が困難である。もう11年も前のことになるが、均整の専門学校を卒業したばかりの頃、機械のように正確な刺激がくわえられなくて、また教科書に書かれたようには刺激を入れられなくて悩んだことがある。

  均整法の刺激には圧性、触性、痛性、叩打性、振動性、運動性、冷温などの別があるが、同じ人に同じように圧性の刺激をくわえてみても、例えば胸椎の5番の左の二側といっても一回目と二回目では刺激が微妙に違ってしまい、同じ圧力で押すことができない。スタンプで押すような正確な刺激を与えることができないのである。さらに刺激する場所も微妙にずれているようで気になるし、刺激を入れる角度も同じではないような気がしてしかたがない。正確に同じ刺激を与えることができず、刺激に再現性がないのである。

  さらに、人が違ってしまえば、同じ圧性の刺激でも圧力などはぜんぜん別物というくらい違ってしまう。大柄な人や太っている人に心地よいとする刺激を華奢な人にくわえられないからである。また同じ患者さんがみえても前回の刺激を思い出して同じ刺激を正確に入れることができない。

  さらに刺激を加えた結果、問題の箇所がどの程度改善されたか指で判別するわけだが、これも術前の記憶を頼りに、その記憶と比較して今度はどうであったかを見るわけである。ここでも記憶という頼りないものに頼らざるを得ないのである。

  私の手の感覚とか記憶という、きわめて主観的な要素に左右されてしまうのだ。私はロボットではないから、おなじ刺激を二度くりかえすことが出来ない。刺激が違ってしまえば反応も違ってくるのだから、定量化できず、客観的なデータもとれない。以上の課程には客観性など微塵も存在しないのである。

  これでは科学化などとうていおぼつかない。手技治療はすこぶる主観的であると言えるのである。西洋医学は客観性を尊ぶのに対し、手技療法は主観性を頼らざるとえないのである。そしてこの傾向は手技のみならず鍼灸をふくめた東洋医学全般に言えるのではないだろうか。

  もちろん西洋医学に主観的判断がないわけではない。様々な検査結果のデータを同じように見ながら、医師の卵と熟練した医師では導き出す結論(診断)が違っていることが良くあるように、レントゲン写真を見る医師が、まるでパラパラと本をめくるようにすばやく写真を見ていながら的確に病巣を発見するように、また外科医のオペの術式はまるで職人の技といえるが、これらは主観的判断と言っていいと思う。しかし、それらは客観化された後の主観的判断であり、はじめから主観が尊ばれているわけではない。西洋医学めざす方向は客観化といって間違いないだろう。

  それにひきかえ均整法(手技)や鍼灸といった東洋医学には始めから主観があり、客観性は主観に従属している。したがって科学的であるための第二の条件である客観性もないといえるのである。かくのごとく、統一された論理がなく、客観的でもない均整法(手技療法)は、科学的であるとはとうてい言えない。

 613 QZW02663 ビーバー  均整法(手技療法)は非科学的 (10) 97/05/13


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