「少林寺拳法」という名前は本場中国にはない。「少林寺拳法」という名は「宗道臣」によって、昭22年に名乗られたのが最初である。当時(昭和20年前後)の中国には阿羅漢の拳とか少林拳という呼び名はあったようだが「少林寺拳法」という名前では存在しなかった。
宗道臣は昭和3年、18歳の時に満州に渡り、特殊工作の要員になり、以後17年間に渡り仕事のかたわら、中国に点在した各流派の達人より秘技を修得し、敗戦後、昭和21年帰国。人づくりによる祖国復興を決意し、バラバラだった拳法の技を体系づけて新たに「少林寺拳法」と名のった。
「少林寺拳法」というからには、この宗道臣の起こした少林寺拳法ということになる。しかも昭和22年以降に練習して昭和30年ごろには師範になっていたということになる。しかし松山から多度津へは(予讃線)現代の特急で片道2時間。当時は蒸気機関車の時代だったとすると現代の倍の4時間をみる必要がある。往復で8時間。この距離を当時36才から45才の亀井先生が通い、療術を勉強しながらかたわらで少林寺拳法の練習をしていたとは考えにくい。
次に考えられるのは国柱会との関係である。亀井先生は日蓮宗の一派である国柱会の熱心な信者であった。国柱会は戦時中、熱狂的な愛国団代として知られている。有名な人では宮沢賢治、満州事変を画策した石原莞爾がいる。亀井先生は東条内閣打倒を唱え東奔西走したというが、石原莞爾も太平洋戦争勃発後は官職を辞して野に下り、米国と戦争をする愚を唱え東条内閣を糾弾した。国柱会の熱心な信者であった石原莞爾と亀井先生が一面識もないと云うことは考られない。
この石原莞爾は少林寺拳法創始者宗道臣とも関係があった。『 ・・・とうとう満州事変(昭和6年(1931)9月18日)が勃発してしまった。9月になると・・・そのためにやむを得ず私(宗道臣)は三度び戦乱の真最中であった大陸に復帰することになり、土肥原大佐の元で再び陳良老師と組み、満州国建国の舞台裏で働くことになったのである。そうしているこの間に石原中佐(石原莞爾はこの時中佐だからおそらくその人)や金井章次博士、大川週明博士らからいろいろ教えられて、大陸に軍閥もない財閥も居ない五族協和の王道楽土をつくるためと信じ、陳良老師その他の中国人同士や日本の青年達が大勢命を懸けて働いた。昭和7年になると・・・(正統少林寺拳法教範114ページ・宗道臣著より)』
と書かれていることを考慮に入れると、亀井先生、石原莞爾、宗道臣に一連の関係が明らかになってくる。「日本の青年達が大勢命を懸けて働いた」という中には亀井進の名もあったのではないか。亀井先生は満鉄の調査部に席をおいていたと云うが、そこはおそらく今日のスパイ組織のようなものではないかと思われる。特務機関として働いていた宗道臣と仕事の性格が同じなのだから面識があってもおかしくはない。
陳良老師という人は宗道臣に少林寺に伝わる拳法を教えた方だから、亀井先生は同僚の宗道臣ともに学んだということも充分に考えられる。宗道臣、亀井進ともに明治44年(1911)生まれで同い年。盟友だったのではなかろうか。
そしてさらにこの考えを突き進めれば、少林寺拳法には突き蹴りの剛法、関節技を使って投げる柔法、この他に整法といわれる整体法が伝えられている。それは「整体医法秘譜」として残されているが、その編集にも携わっていたのかも知れない。
しかし、以上はあくまでも推測である。少林寺拳法あるいは亀井家の奥深くから、裏付けとなる資料が出ない限り確定的ではない。また、もしそうだとすると侵略の一言で単純化されてしまった戦前の歴史の1ページに光が当たることになるかもの知れない。
参考 石原莞爾のホームページ http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/Ishihara.html